谷崎潤一郎の『蘇東坡』を読む 戯れ書きが騒ぎを生じさせたなら、評判にかこつけて公にそむくこともないだろう
どうしても自分一人では完結しないこともあろうと思うので、今回は私が解るところまでの事を書いて、いつか誰かがその先の謎を解いてくれることを期待することにする。
谷崎潤一郎の『蘇東坡』は「改造」に掲載後、『潤一郎喜劇集』に収載される。喜劇? 確かに陰惨なものは現れない。
話の筋としてはシンプルなもので、蘇東坡が四十本の扇子に書を書いたら大いに売れたという程度のものである。
しかしどうも隠されていることがある。
まず例によって蘇東坡という人選が絶妙である。蘇東坡はなかなか剣呑な人物なのだ。
例によってわざわざ谷崎はこの蘇東坡を選んだ。「改造」はまた剣呑な雑誌である。大正九年といえば大正天皇の体調不良が公表され、摂政設置が検討されていた時期に当たる。これはあくまで状況証拠である。
蘇東坡は「良人に従いたいと」落籍の願書を持って来た「高蛍」という芸者に詩を書いてやる。
その心はこうである。
つまり漢詩がパズルになっているという訳だ。もう一人、「鄭容」にはこう書いてやる。
これもパズルで、その心は、
……だという。そんな馬鹿な話はなかろう。むしろ鄭、容、落籍、は赤ニシンで、詩の趣旨は「落筆風を生ずれば、聲名を籍りて公に負かず。」だろう。これを仮に「戯れ書きが騒ぎを生じさせたなら、評判にかこつけて公にそむくこともないだろう」と読めば、まず、この作品がメタフィクショナルな構造を持つことまでは解る。そして、
①この作中の別の歌にパズルが仕込まれている事
②そこから別の意味が現れる事
……までが予測される。しかし実際のパズルはまだ解けない。
これを蘇東坡は「離別の悲しみ」を歌ったものだというが、そこに仕組まれている筈のパズルが私の如き者には見つからない。
ヒントは「悲しい歌もみんな喜びの種になるのよ。」というロジックなのだろう。「此の恨み平分して取れば更に言語なうして空しく相窺ふ二細雨」の「二細雨」の意味が解らない。そう数える? 「此の恨み」が何の恨みなのか解らない。「今夜山深きところ」なのに「斷魂潮に分付して回り去らん」となる仕組みも解らない。山深き所に池はあっても湖はなかろう。「斷魂」や「細雨」は蘇東坡の詩にも散見されるが、この詩の解釈をこれだと導くようなものは見つからない。
しかし何かある。「此の恨み平分して取れば更に言語なうして空しく相窺ふ二細雨」これを読み下しから漢文に戻すとどうなるのかだけど、この時代に言語かなという気がする。言でよくて語が余る感じがするのは私だけだろうか。
ここから先は誰かがやってくれないものだろうか。
ということで、質問してみた。
有意な回答はない。
「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」