餅花を今戸の猫にささげばや
この句には、
という言葉が添えられていて、さらに『澄江堂雑詠』において
こう説明されているので、どうしても今戸焼が解らないと鑑賞できない。この「今戸の狐」は落語にある「今戸の狐」のことで、落語の中に出てくる「今戸の狐」はどうしても今戸焼の狐になる。
ここを今戸の猫=今戸神社の猫、招き猫と解釈するのはそう外れたものではない。結局その招き猫が今戸焼の猫なのだから。(もともとは狸が主だった。)ただ漱石を神社にしてしまうと小宮豊隆が出てきてしまうので、神社に飾るのではなく、今戸焼の猫のような先生の絵に餅花を飾るのだ、というところは確認しておこう。ここは必ず試験に出るところだ。(何の?)
今戸焼は『吾輩は猫である』に出てくるので以前調べておいた。下の記事から詳細を確認してもらいたい。
さらに言えば岡本一平の絵も見たくなる。
餅花を今戸の猫にささげばや
まさに吾輩という顔である。
餅花とは小正月の飾り物で、本の山を背にして火鉢を抱える漱石先生の姿に季節を合わせたものであろう。
餅花や鉄瓶たぎる長火鉢
餅花の下春のよな炬燵かな
寒そうに片手を引っ込めている先生に餅花を飾ってあげましょう、そういう句として読んでおこう。
今戸焼と岡本一平の夏目漱石の絵の二つがきちんと捉えられていないとこの句は理解できない。当たり前のことを当たり前に。句としては背景に頼り過ぎた内輪受けのような句だが漱石と芥川の内輪なのだからこれはもうパブリツクのようなものだ。岡本一平の戯画を仲立ちにしてようやく我鬼が直接漱石を詠んだ句として記念碑的な作品でもある。
つまり、
餅花を今戸の猫にささげばや
こう詠まれた「今戸の猫」とは夏目先生である。
【余談】
ここで先生と呼ばれているのは馬場孤蝶である
芥川で遊んではいけません。