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三四郎の身長は何故伸び縮みするのか?

 どういう訳か真面目に書いた記事より、息抜きに、ちょっと裏の話を書いた方がPVが多いので、今回はやはり正統的な文章読解では答えが出そうもなさそうな問題、三四郎の身長が伸び縮みする問題について、与太話を書いてみたいと思います。

 まず三四郎の身長が伸び縮みするというのはこういうことです。

 湯から上がって、二人が板の間にすえてある器械の上に乗って、身長を測ってみた。広田先生は五尺六寸ある。三四郎は四寸五分しかない。
「まだのびるかもしれない」と広田先生が三四郎に言った。
「もうだめです。三年来このとおりです」と三四郎が答えた。(夏目漱石『三四郎』)

 一応、ここで三四郎の身長は五尺四寸五分とされます。これを「明治の平均身長からすれば低くはない」と妙な擁護をする人がいますが、三四郎の「もうだめです」という言葉を無視してはいけませんね。三四郎は自覚的に背が低い、あるいは自分の背に物足らないものを感じている訳です。だからこそ「もうだめです」なのです。

 ところが別の場面、美禰子との場面、少し長く引きますが、

「野々宮さんを愚弄したのですか」
「なんで?」
 女の語気はまったく無邪気である。三四郎は忽然として、あとを言う勇気がなくなった。無言のまま二、三歩動きだした。女はすがるようについて来た。
「あなたを愚弄したんじゃないのよ」
 三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。
「それでいいです」
「なぜ悪いの?」
「だからいいです」
 女は顔をそむけた。二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子に互いの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。
「ほんとうにいいの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向こうから二、三人連の観覧者が来る。
「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。下足を受け取って、出ると戸外は雨だ。
「精養軒へ行きますか」
 美禰子は答えなかった。雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。さいわい雨は今降りだしたばかりである。そのうえ激しくはない。女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。
「あの木の陰へはいりましょう」
 少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。
「悪くって? さっきのこと」
「いいです」
「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」
 女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、
「だから、いいです」と答えた。
 雨はだんだん濃くなった。雫の落ちない場所はわずかしかない。二人はだんだん一つ所へかたまってきた。肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。雨の音のなかで、美禰子が、
「さっきのお金をお使いなさい」と言った。
「借りましょう。要るだけ」と答えた。
「みんな、お使いなさい」と言った。(夏目漱石『三四郎』)

 この場面ですが、三四郎は美禰子よりも背が高い、とか五尺四寸五分は低くないという理屈で乗り切ろうとする人がいますが、よし子も背が高く、美禰子のモデルであった大塚楠緒子もすらりとした美人だったようで身長約158センチの漱石よりやや大きな162~センチ以上ではないかと思われます。この数字には証拠はありません。

 だから、

 三四郎の身長はこのきゅんきゅんの場面でデフォルメされたのではないでしょうか。デフォルメとはいかにも小説的ですが、あまり背の高くないボーイフレンドとデートする時、ヒールの高くない靴を履いてくる女の子と云うのは昔からいるわけです。猫背の大女というのもいますね。漱石は、この場面でどうしても三四郎を大きくしたいのです。

 というのも、三四郎と美禰子との関係は「閨秀作家」とモデルの関係性でしょう。

「先生、ついでだからちょっと聞いておきますがさっきのなんとかベーンですね」
「アフラ・ベーンか」
「ぜんたいなんです、そのアフラ・ベーンというのは」
「英国の閨秀作家だ。十七世紀の」
「十七世紀は古すぎる。雑誌の材料にゃなりませんね」
「古い。しかし職業として小説に従事したはじめての女だから、それで有名だ」
「有名じゃ困るな。もう少し伺っておこう。どんなものを書いたんですか」
「ぼくはオルノーコという小説を読んだだけだが、小川さん、そういう名の小説が全集のうちにあったでしょう」
 三四郎はきれいに忘れている。先生にその梗概を聞いてみると、オルノーコという黒ん坊の王族が英国の船長にだまされて、奴隷に売られて、非常に難儀をする事が書いてあるのだそうだ。しかもこれは作家の実見譚だとして後世に信ぜられているという話である。
「おもしろいな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちゃあ」と与次郎はまた美禰子の方へ向かった。
「書いてもよござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」
「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でもいいじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」
「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護するように言ったが、すぐあとから三四郎の方を向いて、
「書いてもよくって」と聞いた。その目を見た時に、三四郎はけさ籃をさげて、折戸からあらわれた瞬間の女を思い出した。おのずから酔った心地である。けれども酔ってすくんだ心地である。どうぞ願いますなどとはむろん言えなかった。(夏目漱石『三四郎』)

 小宮豊隆にはこんな体験はないはずです。つまり閨秀作家のモデルにされる云々の話はなかろうと思いますが、漱石にはあるんですね。美禰子が大塚楠緒子なら、彼女は一葉、薄氷に継ぐ閨秀作家(女性作家)なのです。漱石自身が色白の長兄・大助に似ず、色黒のわんぱく坊主で、とても「坊っちゃん」という感じの子供でもなかったことから、かなり三四郎に自己投影し、大塚楠緒子に弄ばれる感覚、そして大塚楠緒子に詫びられる感覚、大塚楠緒子に何かを後悔させる感覚、大塚楠緒子に些細なことほど取り返しがつかないものだと悟らせる感覚を楽しんだのでしょう。

 いや、こんなものは屁理屈です。何しろ漱石はのっけから藤尾を殺していますからね。男を両天秤するような我の女は金時計と共に砕け散れと憤死させていますから、理論上大塚楠緒子はもう殺されているのです。これに飽き足らないで、遺作『明暗』でも清子を「反逆者」と呼ぶのが漱石の途轍もないところです。いや、漱石にもこれがとんでもないいいがかりだということは解っているのですよ。わかっちゃいるけど、やめられないわけです。

 それにしても仮に美禰子が162センチで、159センチの漱石が、165センチの三四郎に一瞬「三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。」と下駄を履かせたとしたら、なかなか可愛くありませんか。165センチでは162センチは見下ろせませんよ。159センチの漱石では到底無理です。見下ろすとなればどうしても170センチ以上は必要でしょう。

 つまり三四郎の背丈が伸び縮みするのは、すらりとした大塚楠緒子に対する芝居の作用でしょう。津田はすらりとした男です。坊っちゃんは華奢に小作りでいいんです。マドンナとデートはしませんから。津田は清子を追いかけるので、すらりとさせたのです。三四郎の実際の身長に関わらず、この場面は「三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。」という絵にしたかったのです。云ってみれば、これは不可能な理想ですね。『それから』だって不可能な理想ですよ。大塚楠緒子と漱石は結ばれようがないんです。津田が清子を追いかけたって、取り返すことはできないでしょう。これが不可能な絵であることは、見下ろすほど背の高い男と見下ろされる女の肩がぶつかるという摩訶不思議で表されています。予告では摩訶不思議は書けないとしながら、どうも摩訶不思議な話になってしまったのは、夏目漱石という作家が摩訶不思議だから仕方ありませんね。




[余談]

 村上春樹さんは『それから』と『三四郎』は好きで、『こころ』は何処が面白いのか解らないそうです。ああ、なんとか『こころ』の摩訶不思議な面白さを伝えたいなあ。

[余談②]

「まだ面白い事があります首を縊ると背が一寸ばかり延びるそうです。これはたしかに医者が計って見たのだから間違はありません」
「それは新工夫だね、どうだい苦沙弥などはちと釣って貰っちゃあ、一寸延びたら人間並になるかも知れないぜ」と迷亭が主人の方を向くと、主人は案外真面目で「寒月君、一寸くらい背が延びて生き返る事があるだろうか」と聞く。「それは駄目に極っています。釣られて脊髄が延びるからなんで、早く云うと背が延びると云うより壊れるんですからね」
「それじゃ、まあ止めよう」と主人は断念する。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 なんて下りもありましたね。漱石先生ももう少し背丈が欲しかったようです。

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