どういう訳か真面目に書いた記事より、息抜きに、ちょっと裏の話を書いた方がPVが多いので、今回はやはり正統的な文章読解では答えが出そうもなさそうな問題、三四郎の身長が伸び縮みする問題について、与太話を書いてみたいと思います。
まず三四郎の身長が伸び縮みするというのはこういうことです。
一応、ここで三四郎の身長は五尺四寸五分とされます。これを「明治の平均身長からすれば低くはない」と妙な擁護をする人がいますが、三四郎の「もうだめです」という言葉を無視してはいけませんね。三四郎は自覚的に背が低い、あるいは自分の背に物足らないものを感じている訳です。だからこそ「もうだめです」なのです。
ところが別の場面、美禰子との場面、少し長く引きますが、
この場面ですが、三四郎は美禰子よりも背が高い、とか五尺四寸五分は低くないという理屈で乗り切ろうとする人がいますが、よし子も背が高く、美禰子のモデルであった大塚楠緒子もすらりとした美人だったようで身長約158センチの漱石よりやや大きな162~センチ以上ではないかと思われます。この数字には証拠はありません。
だから、
三四郎の身長はこのきゅんきゅんの場面でデフォルメされたのではないでしょうか。デフォルメとはいかにも小説的ですが、あまり背の高くないボーイフレンドとデートする時、ヒールの高くない靴を履いてくる女の子と云うのは昔からいるわけです。猫背の大女というのもいますね。漱石は、この場面でどうしても三四郎を大きくしたいのです。
というのも、三四郎と美禰子との関係は「閨秀作家」とモデルの関係性でしょう。
小宮豊隆にはこんな体験はないはずです。つまり閨秀作家のモデルにされる云々の話はなかろうと思いますが、漱石にはあるんですね。美禰子が大塚楠緒子なら、彼女は一葉、薄氷に継ぐ閨秀作家(女性作家)なのです。漱石自身が色白の長兄・大助に似ず、色黒のわんぱく坊主で、とても「坊っちゃん」という感じの子供でもなかったことから、かなり三四郎に自己投影し、大塚楠緒子に弄ばれる感覚、そして大塚楠緒子に詫びられる感覚、大塚楠緒子に何かを後悔させる感覚、大塚楠緒子に些細なことほど取り返しがつかないものだと悟らせる感覚を楽しんだのでしょう。
いや、こんなものは屁理屈です。何しろ漱石はのっけから藤尾を殺していますからね。男を両天秤するような我の女は金時計と共に砕け散れと憤死させていますから、理論上大塚楠緒子はもう殺されているのです。これに飽き足らないで、遺作『明暗』でも清子を「反逆者」と呼ぶのが漱石の途轍もないところです。いや、漱石にもこれがとんでもないいいがかりだということは解っているのですよ。わかっちゃいるけど、やめられないわけです。
それにしても仮に美禰子が162センチで、159センチの漱石が、165センチの三四郎に一瞬「三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。」と下駄を履かせたとしたら、なかなか可愛くありませんか。165センチでは162センチは見下ろせませんよ。159センチの漱石では到底無理です。見下ろすとなればどうしても170センチ以上は必要でしょう。
つまり三四郎の背丈が伸び縮みするのは、すらりとした大塚楠緒子に対する芝居の作用でしょう。津田はすらりとした男です。坊っちゃんは華奢に小作りでいいんです。マドンナとデートはしませんから。津田は清子を追いかけるので、すらりとさせたのです。三四郎の実際の身長に関わらず、この場面は「三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。」という絵にしたかったのです。云ってみれば、これは不可能な理想ですね。『それから』だって不可能な理想ですよ。大塚楠緒子と漱石は結ばれようがないんです。津田が清子を追いかけたって、取り返すことはできないでしょう。これが不可能な絵であることは、見下ろすほど背の高い男と見下ろされる女の肩がぶつかるという摩訶不思議で表されています。予告では摩訶不思議は書けないとしながら、どうも摩訶不思議な話になってしまったのは、夏目漱石という作家が摩訶不思議だから仕方ありませんね。
[余談]
村上春樹さんは『それから』と『三四郎』は好きで、『こころ』は何処が面白いのか解らないそうです。ああ、なんとか『こころ』の摩訶不思議な面白さを伝えたいなあ。
[余談②]
なんて下りもありましたね。漱石先生ももう少し背丈が欲しかったようです。