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こはざれに麦からかけよラズベリー 芥川龍之介の俳句をどう読むか43

 園芸を問へる人に

あさあさと麦藁かけよ草いちご


http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/natu/ichigo.html

 なんでそうなる?

 この「あさあさ」にも色んな意味がある。

日本古典全集 芭蕉全集 後

あさあさと色うつくしき重の茎

 この「重」が「空櫃」についているなら、

ひつ【櫃】
①什器の一つ。大形の匣はこの類で、上に向かって蓋の開くもの。長櫃・韓櫃からびつ・折櫃おりびつ・小櫃・飯櫃などがある。万葉集16「―に鏁かぎさし蔵おさめてし」
②特に、飯櫃。おひつ。

広辞苑

茎は青菜であり、野沢菜のような漬物か。すると「あさあさ」は、

あさ‐あさ【浅浅】
①あっさりとしたさま。うっすらとしたさま。中華若木詩抄「うす墨を以て―と書いた花」
②考えが浅いさま。軽々しいさま。
③(女房詞)浅漬。

広辞苑

 浅漬けにかかる。


古事類苑 飲食部6


貞丈雑記 六之上

ただしこの「あさあさ」は白菜ではない。白菜は

火腿と云ふのは一種のハムである。白菜と云ふのは、キヤベツに似て白い太い莖を持つた支那の野菜である。

(谷崎潤一郎『美食俱楽部』)

 と、かなり遅く日本に這入って来たもので、まさに野沢菜のようなものが漬けられていた筈だ。

あさあさと麦藁かけよ草いちご

 しかしこの句の「あさあさ」は浅漬けではなさそうだ。「うっすらと」という程度の意味であろう……か。

 草いちごというのはキイチゴで、生命力の強い野生の低木であり、普通は植えない。園芸の対象ではないのだ。ラズベリーなどもキイチゴの仲間でやたら繁殖するので庭に植えてはいけない植物とされている。

 

発句類題全集 1-65 [29] [正岡子規] [編]正岡子規写 1889年

木食は艶やはつらん草いちご


薬種知便草

草いちごくふぞ五十の顔をはぢ


明治俳家句集 金森匏瓜 編磯部甲陽堂 1908

草いちご牛を飼ふなる小家かな   木兆

 これは春の句四月の部に入れられている。

名家俳文集 佐々醒雪, 巌谷小波 校博文館 1914年

取あへず手向になして草いちご     周竹

 明治の「草いちご」には因縁は見つからない。しかしやはり育てている気配はなく、余り珍重もされていない。

 普通の苺の場合寒さ対策として藁を敷くのは晩秋から。

 そこでこの「麦藁かけよ」が季語となれば晩秋か、ということになるのだが、そもそもキイチゴに藁は必要ないので、この句はわけがわからないことになる。

 唯一考えられるのは、「あさあさと」が「考えが浅いさま。軽々しいさま」という意味であった場合。

 それならば「麦藁かけよ」が成り立つのだが、そうなるとそもそも正しい栽培法でもなんでもないので、「麦藁かけよ」が晩秋を指すとは言い切れなくなる。またもや季語殺しである。

 ただこの時点でそもそもキイチゴには花も実がなっていないのだろうから、「春ではなさそう」と言えることは言える。しかしそもそも「春ではなさそう」で俳句になるものであろうか。

 それに「園芸を問へる人に」が「文芸を問へる人に」に思えてきて少し鼻につく。園芸のことなら庭造りの名人室生犀星に問うべきだろうに。

 したがってこの句の解釈は「あさはかなことであるが草いちごにわらをかけておけ、俺に園芸のことを聴くんじゃないよ馬鹿、文芸のことを聞け」とでもみるしかない。「草いちご」を間違いとするのも無理がある。麦藁を季語とした場合、季節は夏。ともかく季節に関しては頓珍漢な句が続く。続いているから単にここで「草いちご」は苺の誤りでしょうとは言えない理屈だ。そういう意味で敢えて晩秋の句としておく。

 この考えは最期に変わるかもしれない。

しれじれと麦稈かけよ懸鉤子

たはわざに菅笠かけよ臭い稚児

しれごとにいながらかけよ覆盆子


【余談】

 彼は現世に縛られ、通用の倫理に縛られ、現世的に堕落ができなかった。文学の本来の道である自己破壊、通用の倫理に対する反逆は、彼にとっては堕落であった。私は然しかし彼が真実欲する女を口説き得ず姪と関係を結ぶに至ったことを非難しているのではない。人各々の個性による如何なる生き方も在りうるので、真実愛する人を口説き得ぬのも仕方がないが、なぜ藤村が自らの小さな真実の秘密を自覚せず、その悲劇を書き得ずに、空虚な大小説を書いたかを咎めているだけのことである。芥川が彼を評して老獪と言ったのは当然で、彼の道徳性、謹厳誠実な生き方は、文学の世界に於ては欺瞞であるにすぎない。

(坂口安吾『デカダン文学論』)

 ここで「彼が真実欲する女を口説き得ず姪と関係を結ぶに至ったことを非難しているのではない」と言われているのは言うまでもなく島崎藤村である。芥川が、

彼は「新生」の主人公ほど老獪な偽善者に出会つたことはなかつた。

(芥川龍之介『或阿呆の一生』)

 ……と書いているのは事実。しかし「彼が真実欲する女を口説き得ず」という辺りはどうなのだろう? 日本ファクトチェックセンターに検証してもらいところだ。

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