こはざれに麦からかけよラズベリー 芥川龍之介の俳句をどう読むか43
園芸を問へる人に
あさあさと麦藁かけよ草いちご
なんでそうなる?
この「あさあさ」にも色んな意味がある。
あさあさと色うつくしき重の茎
この「重」が「空櫃」についているなら、
茎は青菜であり、野沢菜のような漬物か。すると「あさあさ」は、
浅漬けにかかる。
ただしこの「あさあさ」は白菜ではない。白菜は
と、かなり遅く日本に這入って来たもので、まさに野沢菜のようなものが漬けられていた筈だ。
あさあさと麦藁かけよ草いちご
しかしこの句の「あさあさ」は浅漬けではなさそうだ。「うっすらと」という程度の意味であろう……か。
草いちごというのはキイチゴで、生命力の強い野生の低木であり、普通は植えない。園芸の対象ではないのだ。ラズベリーなどもキイチゴの仲間でやたら繁殖するので庭に植えてはいけない植物とされている。
木食は艶やはつらん草いちご
草いちごくふぞ五十の顔をはぢ
草いちご牛を飼ふなる小家かな 木兆
これは春の句四月の部に入れられている。
取あへず手向になして草いちご 周竹
明治の「草いちご」には因縁は見つからない。しかしやはり育てている気配はなく、余り珍重もされていない。
普通の苺の場合寒さ対策として藁を敷くのは晩秋から。
そこでこの「麦藁かけよ」が季語となれば晩秋か、ということになるのだが、そもそもキイチゴに藁は必要ないので、この句はわけがわからないことになる。
唯一考えられるのは、「あさあさと」が「考えが浅いさま。軽々しいさま」という意味であった場合。
それならば「麦藁かけよ」が成り立つのだが、そうなるとそもそも正しい栽培法でもなんでもないので、「麦藁かけよ」が晩秋を指すとは言い切れなくなる。またもや季語殺しである。
ただこの時点でそもそもキイチゴには花も実がなっていないのだろうから、「春ではなさそう」と言えることは言える。しかしそもそも「春ではなさそう」で俳句になるものであろうか。
それに「園芸を問へる人に」が「文芸を問へる人に」に思えてきて少し鼻につく。園芸のことなら庭造りの名人室生犀星に問うべきだろうに。
したがってこの句の解釈は「あさはかなことであるが草いちごにわらをかけておけ、俺に園芸のことを聴くんじゃないよ馬鹿、文芸のことを聞け」とでもみるしかない。「草いちご」を間違いとするのも無理がある。麦藁を季語とした場合、季節は夏。ともかく季節に関しては頓珍漢な句が続く。続いているから単にここで「草いちご」は苺の誤りでしょうとは言えない理屈だ。そういう意味で敢えて晩秋の句としておく。
この考えは最期に変わるかもしれない。
しれじれと麦稈かけよ懸鉤子
たはわざに菅笠かけよ臭い稚児
しれごとにいながらかけよ覆盆子
【余談】
ここで「彼が真実欲する女を口説き得ず姪と関係を結ぶに至ったことを非難しているのではない」と言われているのは言うまでもなく島崎藤村である。芥川が、
……と書いているのは事実。しかし「彼が真実欲する女を口説き得ず」という辺りはどうなのだろう? 日本ファクトチェックセンターに検証してもらいところだ。