だんだら
岩波書店『定本 漱石全集第三巻』注解に、
……とある。
広辞苑は「だんだら縞」と「だんだら染め」を区別する。「だんだら縞」は「違った色糸で織った横縞物」であり、「だんだら染め」は「だんだら筋」であり「横筋を違った色に染めた模様」としたいようだ。
一方日本国語大辞典は「だんだら筋」を「横縞が違った色で段々になっている模様」として染めなのか織りなのかを区別しない。
学研国語大辞典が一番おおらかで「もようや柄に、(異なった色の)太い横じまがいくつもあること」とやはり結果としてのだんだら模様と見做す。そして用例として『草枕』を挙げている。
明鏡も同様に「いくつかの色の横じまが段になって表されていること。また、そのような模様」と大きく捉える。
新明解はさらに「〔「段段」の変化〕 いろいろな色の横縞(ジマ)が見えること」と砕けた上に「いろいろな色」と二色では足りぬような説明になっている。
織りであるか染めであるのかの議論が必要なのはわかるが、「山桜が薄赤くだんだらに棚引いて、続ぎ目が確と見えぬくらい靄が濃い」のであるから、ここは手綱染めまで意味を限定せずとも良いところではなかろうか。
こんな解釈もある。
赤毛布
初見ではこの「赤い毛布」の意味は定かではない。
このように書かれてようやく、先を行く田舎者の一人が「赤い毛布」だと解る。
岩波書店『定本 漱石全集第三巻』注解は、
……と注釈をつける。しかしここはもう少し風俗の色付けがあってもいいのではなかろうか。
これを見るとred blankets が既に田舎者の意味かと思うが、赤毛布に田舎者の意味があるようだ。
これはやや時代が下るが、
やはり野暮な田舎者の意味として「赤毛布」が使われている。漱石はその人物の一部の特徴を以て呼称とする提喩をしばしば用いるので、ここはフラットな意味で捉えてもいいが、「赤毛布」そのものに田舎染みたニュアンスが既にあることは明記しておいても良いだろう。
浮世の勧工場
岩波書店『定本 漱石全集第三巻』注解は、
……としている。
これはデパートというより、商店街や闇市、ショッピングセンターに近いのではなかろうか。
大きな店舗がありテナントが入るという形式ではなさそうなので、やはりデパートの前身とするのは少し無理があろう。
超然と出世間的に利害損得の汗を流し
岩波書店『定本 漱石全集第三巻』注解はここに、「汝の見るは現象の世界なり。われの視るは實相原△汝ノ見るは利害の世なり。われの立つは理否の世なり。の世なり」という断片を引く。
ここには、こんな解説がある。
利害損得は解るが利害損得の汗とは何だろうという意識のめぐらし方が圧倒的に正しいと思える。
非人情の天地
岩波書店『定本 漱石全集第三巻』注解は、
……とある。確かに『草枕』の作中に「非人情」の語は二十五回現れ、
このように『草枕』が非人情小說と呼ばれるようになることから、この小説の中で「非人情」の概念が練られたことは間違いない。人情・不人情を超越したものかどうかは検討の余地がある。
このように「非人情」を漱石の新造語と見做す主張は古くからある。
しかしさすがにこれは贔屓の引き倒しになってはいまいか。事実としては既にあった非人情という言葉に、漱石が独自の意味を付与したのであり、それは新造語ではない。
そもそも非人情とは他人から言われることで、実際の当人の意識の中でどのような感情が働いていたのかは定かではない。「もちろん人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳には行かぬ」とはっきり枯れているところを見なくてはならないだろう。これが則天去私の概念とどう繋がるのか、繋がらないのか、そもそも本当に超越なのか、あるいは放棄なのか、ぼんやりしているだけではないのか、ここはさらに精査が必要なところだ。
なんでもそうやすやすと超越できるものではなかろう。
[余談]
それにしても日々オペレーションが変化していく。あっという間だ。例えばこれまでは持ち帰り天麩羅を店員に注文して獲って貰っていた筈が自分で取るように変わった。こんなことが日々起こると、ある日常生活の記述が何年後ではなく何日後には訳の分からないものになりかねない。
今、我々が「蛙」として認識しているものは、昔の人には「蛙」ではない。鳩も雀もそうだ。
最近は人を恐れない雀が増えた。昔は浅草では鳩の餌が売られていた。間もなく自転車でヘルメットが努力義務になる。
だからこそ今を記録しておくことにも意味があるのだろう。
それがたとえ天麩羅事件でも。