移住先で出会う人々の雰囲気を、言語化してみる
宇野で出会う人々は、なんだか似た雰囲気を持っている気がする。私のように、移住者が引き寄せられている理由の一つは「人」にあると思うから。正直言語化しにくい感覚なのだけれど、今日はあえて言葉にしてみようと思う。
まず感じるのは、ひとりひとりが自分の空気を見に纏っているということ。オーラ、とまでは言わないけれど、その人の周りだけに流れている空気がある。そんな気がする。
そして空気の流れ方は人それぞれ違うのに、流れていく速度は同じくらいのゆったりペース。だから個性がまったく違っても、話の波長は不思議と合う。互いの空気を乱さずに、近いところで流れ合っている。もちろん目には見えないから想像でしかないが、そんな気がしてならない。
きっとそれが、私にとっては心地いいんだろうなとも思っている。
別の言葉で表すなら、“自分の島”にいる人が多い、という表現をしてみたい。わかりやすく言えば自分軸なのだが、“軸”というより“島”のイメージなのだ。
自分が大切にしたいものがいくつかあって、それが自分のエリアみたいになっていて、誰と会うにも自分の島にいながら話しているかんじ。そしてそれを、みんながよしとしている雰囲気を感じる。
『他者と働く 「わかりあえなさ」から始まる組織論』(著・宇田川元一)に、対話のプロセスをイラスト化しているページがある。宇野で出会う人はまさにイラストのイメージとぴったりなのだ。どんなに仲がいい人でも、自分と他者はそもそも違う島にいる。コミュニケーションを取るときは自分の島から他者の島へ橋をかける。それが対話なのだと、著書では記載されていた。
あくまでも他者は他者。だからと言って離れているわけでもなくて、自分のの島や空気を守りながら、すぐに手を取り合える場所にいる。私から見た宇野で出会う人は、こんな雰囲気をしている。もしかしたら、瀬戸内海沿のまちでは似たような雰囲気があるのかもしれない。
宇野の心地よさ、心地いいと感じる理由は、なんとも言葉にしにくい。言葉にできないものも、言葉にできるものと同じくらい大切にしたいと思うようになった。けれど、この場所の空気を、人を、この場にいない人にも共有してみたいと思ったとき、仮に伝わらなかったとしても、ここに言葉を置いておきたいと思うのです。