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未達感と実際には。

仕事でも勉強でも何でもよい。いつまでたっても達成感がない、自己評価の低さと対照的に理想と現実のギャップの大きさに長年苦しめられている。

そしてその苦しみから徐々に解放されつつあるものの、これは私にとっての大きなテーマだ。

「~するべき」「~が当然、あたりまえ」と長年言い続けていると、自分の目指す目標、ハードルはかなり高くなっていく。今となっては絶対に手に届かない領域だ。だいたいそれって出来る人いるの?そんなことが目標になってしまう。

そもそもこの「べき論」のルーツは何だろうか。

まず思いつくのはアダルトチルドレン(AC)的な原家族のありようだ。幼いころから家庭内でサバイブしていることでガチガチのACとなってしまい、それがあらゆる面にネガティブな影響を及ぼす。

また並行して他者からの評価を気にする、というのもあるだろう。日本は偏差値という物差しがはびこっていて、これに囚われることも多い。学歴社会、偏差値偏重の文化は徐々に薄れつつあるが、いわゆるFラン大学よりも東大、京大や早慶のような難関大学をありがたがる風潮を未だに根強い。

一方で、他者からの評価をまったく気にしない、今の世の中で言えば「変わった人」であるほうが快適、幸福度合いが高いケースもある。

自分の幸せとはなにか、という命題に対して「毎日三食食べることが出来て雨風しのげる住処があれば良い」という宮沢賢治のような考え方が最近はしっくりくる。向上心が無いわけではない、あまり意味のない目標設定は無駄だし、自分を苦しめるだけだ。

極端に自分の能力以上の目標設定をしたとしても、それをずっと目指しているとそれを目指さなくてはいけない、強迫的観念に襲われる。ちがう、そうじゃない。

自分の出来ること、自分に対してまあまあ期待されていることを「それなりに」こなすだけで十分に価値があるし意味がある。それをちゃんと自分の中で腹落ちするように出来るのならば、それで十分幸せなのだ。

世の中が大きく変わり、価値観もどんどん変化してきている。そのなかにあって揺るがない、自分の幸せの物差しは正しく使いたい。

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