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あわい輪郭

写真を撮る。 その時にその写真には名前、つまりタイトルはついていない。(仕事では別だ、仕事は依頼があって撮るものだからタイトルありきで撮ることの方が多い。) 展示をする際、その前段階で写真を編む際、写真にはタイトルが与えられる。扱う文脈や社会的な写真が持つ作用の中で意味が与えられていく。それが写真の面白さや複雑さだと思うし意味のある行為だと思うけど、たまにふと何の名前もつけようのない、フレームとしてではなく<写真>そのものが持つあわい輪郭に惹かれることがある。

    • 本を読む

      読書が好きだ、文字を目で追う行為や言葉からイメージが立体的に立ち上がる感覚が好きだ。 いろいろな場所や光で読む、寝室の読書灯や朝方の窓際の淡い光、変化する自然光や図書館の蛍光灯でも。旅先で見たい本や毎日の中で読み進める本。 わざわざ言うようなことではないけど嬉しい本に出会った記録。今は自宅のバルコニーで読んでいる、金木犀の匂いがする。

      • home

        家は何の<いれもの>なのだろう? 幼い頃、母親は仕事をしていて迎えに遅れることがよくあった。友達が一人ずついなくなっていく中で母を待つ心細さより何故自分は一人で家に帰ることを選べずにただ待つことしかできないんだと、選択肢のない無力な立場にいることへの苛立ちが大きかった。 <いれもの>が無くなった時、中身がはじめて何か気づいた。

        • 水餃子の味

          台湾で食べた水餃子、表通りから細い道に入りローカルの客が黙々と食ってすぐ出るといった類のお店で食べた水餃子。 表で親爺が黙々と茹でている水餃子、美味くて滞在中2回行った。勝手にコーラを冷蔵庫から出して水餃子を10個、さっと食ってすぐに出る。 素っ気もなくて美味い水餃子、壁の金城武のポスター。

        あわい輪郭

          untitled

          海の向こうで戦争が起きている。 今年も川向こうの花火大会の花火の打ち合がる音が聞こえる。 自宅のバルコニーで耳をすまし、その音を聞く。雨音と混じった何かの爆発音のような、その音はニュースの動画の中で聞いた遠い国で起きている爆撃の音に似ている。

          誰をも透明な存在にさせないこと

          障害をもった子供の親と子(家族)のインタビューを読む、インタビュアーは友人の熊井さん。 とても考えさせられるインタビュー。知らなかった事だらけで是非一人でも多くの人に読んで欲しい。僕は自分で勝手に決めた倫理観とか常識で誰かの存在を透明化していなかったか?と自分に問う。きっとしてたと思うし、このテキストを読んだだけで何かが劇的に解決するほど簡単な問題ではない。だから(というかだけど)せめて知る事でひとりずつの気づきや意識が変化していくことを重ねていくしかない事だと思う。 僕

          誰をも透明な存在にさせないこと

          薄情

          性別関係なく一度、大事にしようと決めた人を憎むことが出来ない。それでも大きな裏切りや失望で記憶から追い出し、なかったことにした人はいた。それはお互い様で俺もなかったことにされた過去もあるのだと思う。俺は自分のことを薄情な人間だってわかっているから慎重に人と関わるし、今でも他人と関わることは苦手だ。 自分の欠落を埋める為にずっと何かを利用している。

          「写真って何?」

          写真って何なんだろうねと作家の先輩と話した。 結局、最後は好みなんじゃないすかね?と 本当は撮らなくてもいいんだよねと、言った。

          「写真って何?」

          たった一本の指先

          写真はたった一本の指先で撮れる。 アナログであればフィルムの装填や、巻き上げなどのフィジカルが伴うことは理解した上で極論を言えば指先が動けば写真は撮れる。 指先ひとつで撮れて残ってしまう写真も恐ろしいしどんな大事なことでも指先ひとつ動かさなければ写真にならないという事実も怖い。

          たった一本の指先

          記憶からは何も聞こえない

          いつも思い出すイメージがある。 今まで気にしたことがなかったけど自分の記憶には音がないことに気づいた。音に関係する記憶はいくつかあるがそれ自体も音そのものの記憶ではなくそれにまつわる視覚的なイメージしかない。 何故なんだろう、自分は普段の生活でも視覚的に得たものしか記憶が出来なくて(例えば道のりや人を覚える時)音で得た情報は殆ど記憶できない。 だから声を動画や録音しておくことはその人(の声)を忘れない為にも大事だなと思う。声を思い出せないことは随分寂しいことだから。

          記憶からは何も聞こえない

          肌理

          2泊3日で新潟に行く。パートナーの祖母に会う為に病院へ行く。殆どコミュニケーションをとれない相手に声をかけつづける彼女の後ろ姿をただ見る。帰り道静かに泣く彼女の背中を撫でることしか出来ない、かける言葉も見当たらない。つまり俺には何も出来ない。 旅先でsnsで友人の母親が亡くなったことを知る、彼がお見舞いの帰りにたまたま近くでやっていた俺の展示によってくれたことがあった。その時もかける言葉がなくて、いくつかの話をして「展示に来てくれてありがとう」とだけ伝えて別れた。 数枚の

          ただ会いに行く

          ただ会いに行くことしか出来ないとわかっていながらそれでもただ会いに行くことは簡単ではない。それをしないと後で後悔するかもしれない、なんてきっと考えていない。俺と違って打算的じゃない、物事に対して感情的で素直なところを好きになったんだなと思う。

          ただ会いに行く

          不幸の味見

          snsでsnsを批判する投稿を見た。皮肉なのかギャグなのか真剣なのかわからないが、sns上で議論するならとにかく現実世界で(反戦の)デモヘ行け的な内容だった。わからなくてもわからないなりにアクションしろ、声を上げろと色々な人達が言う。最近では芸術も同じような社会的なテーマを扱う作品が多い。本当なのか? 考えること、想像することはもちろん大事だと思うけどその題材、モチーフ、テーマ、出来事を利用してないか?という気持ちになることもある。一時的にお祭り的に消費していないか?やらない

          不幸の味見

          誠実でいること

          それは誰にとって?誰の為に?

          誠実でいること

          不在と在ったもの、元々なかったものについて

          映画を見た。シングルマザーと息子(とその周りの人々)の話、彼の映画は自分にとって特別なものがいくつかある。元々あったものがなくなった時と元々なくて今もないものだったらどっちが幸せなんだろうと思う。 元はあったものなら思い出したり懐かしんだりする事が出来るけどそういうものがあるからこそ苦しんだり悩んだりもするはず。元々なければそのことに悩まされることはないけど思い出すことさえ出来ない。これって写真に撮るとか撮らないとか、みたいなこととも共通してるのか?してないのか?よくわから

          不在と在ったもの、元々なかったものについて

          アーカイブ出来ない身体

          展示をすると思い出すことは殆どが制作中のことだ。作り終わった作品、つまり展示そのもののことはあまり覚えていない、すぐ忘れてしまう。 自分の展示は年々、場所と空間について考えることが増えている気がする。そこの場所に向かうこと、鑑賞者がそこに立つことでその人の身体と場所と作品の結びつきがインスタレーションとしての展示の一回性を成立させると思う。その意味では誰かの経験は他の誰かでは再現が不可能だし写真や映像ではアーカイブすることは出来ない。 俺が展示に求めていることはそういうア

          アーカイブ出来ない身体