【ブックレビュー】『神を哲学した中世』
中世に栄えた哲学を「スコラ哲学」と呼ぶ。
「スコラ」はschoolのラテン語で、「スコラ哲学」とは「学校の哲学」を意味する。近代になるとデカルトなどの新進気鋭の哲学者が学校で教えずに一般向けに書を出したのに対して、学校(大学)では中世風の神学がいつまでも教えられていた。つまり、「スコラ哲学」とは神学の近代以降の呼称なのである。
では、神学とは何か。
本来、哲学と宗教とは相いれないものだと思われがちだ。ローマ・カトリック教会も、神の存在に疑義を呈するような言説(唯名論など)には目を光らせていた。しかし一方で、中世西ヨーロッパ世界はキリスト教だけでなくギリシアの哲学的知性をも引き継いでいたのであり、キリスト教信仰に対する哲学的考察が「神学」として発展する。
神学の誕生以前、キリスト教の学問は「教父学」と呼ばれた。アウグスティヌスなどの権威は存在したが、哲学というよりは説法に近く、信仰をより強固なものにするには一役買っても、キリスト教を哲学に裏付けるには足りなかった。
神学の嚆矢はカンタベリーのアンセルムスによる「神の存在証明」だ。アンセルムスは「信仰以前」を意味する『プロスギオン』という書物を記す。11世紀末、アリストテレスの自然学が西ヨーロッパに到達していなかったころ、イデアの実在を仮定する新プラトン主義が哲学の主流だった。「より小なるものは、より大なるものによってはじめて存在しうる」から、「それより大いなるものが考えられないほど大いなる存在」である「神は存在する」。
12世紀にアラビア経由でアリストテレスの自然学が流入すると、トマス・アクィナスやドゥンス・スコトゥスといった神学者が登場する。彼らは、神の存在、キリストの死、三位一体、天使の堕落といった抽象的な議論のみならず、商売や金融、時効、相続に関する日常的なトラブルにも指針を示している。宗教が持つ人生の指針としての役割は警視されていなかった。
普遍論争と神の存在は切っても切り離せない。キリスト教の神は唯一神であり、この点はユダヤ教やイスラム教と変わらないが、その神が3つのペルソナを持つという独特の世界観を持っていた。3つのペルソナとは、モーセに厳格な戒律を示した「父なる神」、愛をもって十字架の上で死んだ「子なる神」すなわちイエス=キリスト、そして教会で修道士の前に現れる「聖霊」だ。ジョニーとアレックスとアナベルという”個別”を合わせたものとして「人間」という”普遍”があるように、「父なる神」「子なる神」「聖霊」という”個別”が合わせたものとして「神」という”普遍”がある。「人間」なる概念は名前(ラベル)に過ぎず、イデア界のような特殊な時空に実在している訳ではない、と考えるのが唯名論であるが、唯名論では「神」という普遍も実在しないことになってしまう。普遍は実在する。それが神が実在するための必要条件だった。
キリスト教の教義を疑うことがタブー視されていた中世において、代理戦争として普遍の存在が争われたのが中世の普遍論争だった。