【1981失恋海峡②】
同じ年、竜子のお母さんはジョージさんと結婚。
割烹を閉店して実家を売り、夫婦で北海道に移住しました。
実家が解体される時、竜子はお母ちゃんと抱き合って泣いたと言っていたっけ。
気の利いた言葉ひとつかけられなかったけど、生まれ育った家が丸ごとなくなっちゃったんだから、それは悲しかったでしょうね。
でも、大自然に囲まれた新居が待っていました。
2年生になる前の春休み、その新居に遊びに行きました。
そんなに遠くに行くのは、修学旅行以来だったかな。
まだ春は遠くて、どこを見ても雪で、道はアイスバーンで、北海道という土地のエネルギーに圧倒されました。
新居の敷地内には立派なレストランがあって、敷地を掘ったら温泉が湧いたそうで、簡素な露天風呂が作られていて、そこに、放し飼いの猟犬が数匹。馬、羊。何と子熊まで飼ってたんだからすごいでしょ。
スノーバイク、スノーモービル、パラセーリング、見たことのない遊び道具がたくさんあって、まるで遊園地みたいでした。
ジョージさんの事務所は、もろ成り金趣味で、本物の鎧兜と、でっかい金庫と、虎の剥製があって、それもまたアトラクションの一つで。
食卓には、ジョージさんが鉄砲で撃って獲って来た鹿のステーキ、庭のアイヌネギ、搾りたての牛乳、ジャガイモに塩辛乗っけたやつ、氷下魚(こまい)。
挨拶すら苦手だった私が、このもてなしにきちんと御礼を言ったかどうか思い出せないけど、とても歓迎されていたことが、今はわかります。
2、3週間はいたかなぁ。
楽しくて楽しくて、退屈する暇なんかありませんでした。
竜子の運転で、毎日のように雪道をドライブして、地元の暴走族の男の子たちを引き連れて、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖と、走り屋を名乗っただけの運転ワザにまかせて飛ばしたものです。
「そうだ!網走行ってみよう」
思い立ったが吉日で、財布だけ持って竜子と二人、駅から列車に乗ったことがあります。
網走って、なんだか特別な響きがあって、それは映画の『網走番外地』のせいだったんでしょうね。
放送禁止になった高倉健さんの歌が好きでした。
どうせおいらの行く先は、その名も網走番外地……
その網走っていう場所が本当に実在するのかどうか、この目で確かめたくなったのかも知れません。
二人で缶ビールを開けて、ディーゼル列車のエンジン音を聴きながら、揺れにまかて窓の外の雪景色を眺めます。
生まれて初めて地平線を見たのは、この列車の窓からでした。
雪景色って言っても雪に埋もれた家が点々とあるだけで、あとは何もない。
人間の営みなんかすぐに呑み込まれちゃう、何もない大自然。
ただその大自然の雪景色がえんえんと続くわけだから、眠たくなるんですね。
結局二人ともいい気分で、足投げ出して寝てしまいました。
それで網走駅に着いたらびっくり。
雪がしんしんと降っていた。
だいたい地図も時刻表も持って行かなかったんだから、刑務所へのアクセスがわからないし、とにかく寒い。
寒くて何も考えず、たまたま駅前に止まっていたバスに飛び乗りました。
どれくらい乗ったのか、バスは終点に到着。
流氷で真っ白いオホーツク海、その海沿いの道で降りました。
あてもなく、二人で流氷を眺めながら雪の中をどぼとぼ歩きます。
店でもバス停でもこの先に何かがあると思って歩くんですが、さすが網走。
行けども行けども流氷の海で、本当に何もない。
だんだん日が暮れて、暗くなって来ました。
「どうする?帰れなくなるよ」
先に切り出したのは、竜子だった。
私は即答しました。
「ヒッチハイクしよう」
劇団にいた頃、年上の女優さんが、品川で大型ダンプをヒッチハイクして、北海道に行って、昆布獲りのバイトして帰って来た、という話がえらく気に入っていて、いつか自分もそんなことしてみたいと思ってたんです。
そこから竜子の実家まで2~3時間はゆうにかかる場所でしたけど、そんなことは頭のすみにもなかった。
「なあ、ヒッチハイクして、強姦されたらどうする?」
竜子が珍しく、弱気なことを言い始めました。
私は投げやりに返しました。
「やられるだけならいいじゃん。殺されなければ」
21歳と22歳、行くとこまで行ってやろうという感じでした。
いよいよヒッチハイクです。
問題は吹雪の北海道、肝心の車がほとんど通らない。
しかもちょっと手を振るくらいじゃ、車は絶対に止まってくれないことがわかって来ました。
「道の真ん中に出るよ!」
私たちは通りかかる車の真ん前に立ちふさがるようにしました。
そして運転手に伝わるように、思いっきり両手を振りました。
遠くからヘッドライトが見えると、すがるような気持ちを全身で伝えます。
こうすると、さすがに止まってはくれるんだけど、行き先が遠過ぎるようで、断られ続けます。
何だか断られるたびに、ショックが大きくなりました。
だって若い女二人、必死こいて手を振ってるのに、無視されるなんてあり得ないと思ってたから。
若い女として水商売のバイトをやって来て、得したことがいっぱいありましたからね。
竜子も私もヘトヘトに疲れて来た時、ついに奇跡の車が止まってくれました。
行き先を言ったらOK。
中年のおじさんが運転する濃い色のバンでした。
ホッとして車に近づいたら、どうしたことか、急に竜子が私の腕をぎゅっとつかんで、耳打ちして来ました。
「ジョージさんの名前、絶対に出すなよ!」
強い口調で続けます。
「道内じゃ有名人なんだ。そこんちの娘が、ヒッチハイクなんかしてるって噂が立ったら大変だよ!」
よくわからないまま「わかった」と返事をしました。
雪にまみれて凍えていたので、暖かい車の中がどんなに快適だったことか。
ただ白い雪だけが映る夜の国道を、道の脇のポールを頼りにひた走ります。
私も竜子も余計なことを言うまいと、おとなしく後部座席に納まって、よそ行きの会話を心がけます。
おじさんは本当に行き先が同じだったのか、遠回りをしてくれたのか不明でしたが、とても感じのいい人で、無事に強姦もされずに、家まで送ってもらうことが出来ました。
夜も更けて、家族の寝静まった実家はとても静かでした。
私たちは、妙に興奮していました。
竜子が冷蔵庫からビールを出してくれたので、2階の部屋で小さな祝杯をあげます。
ヒッチハイクの緊張から解放されて、酔いが回って、饒舌になって、何をしゃべっても、あのオホーツク海の流氷の向こうに流されていくような気がしていました。
竜子はいつものけだるい声でしゃべり始めました。
高校の時に、ジョージさんに声かけられてさ。
うちのお客さんだったから、自然と話すようになってさ。
初めは、ホテルに行くだけだった。
それから○ャ○打たれてさ。
ジョージさんが借りてた東京のマンションに、ちょくちょく行くようになったんだ。
マンションで○ャ○やって、セックスしてな。
あたし、ジョージさんに惚れてたんだ。
でさ、ちょっと留守番してた時に、タンスの引き出し開けてみたんだよ。
何が入ってるか知りたくてさ、何げなく開けただけだったんだ。
ほんとに何げなくさ。
そしたら、おふくろの下着がびっしり入ってたんだ。
ピンと来たよ、おふくろのだって。
もう何も言わなくても、わかるだろ。
竜子の表情は、暗くて見えませんでした。
セブンスターの煙が、壁を伝っていきます。
何も答えられませんでした。
あまりにも、きちがいじみた話だったから。
でも今までのジョージさんへの気遣いがなぜなのか、よくわかった。
私はひどく不快な気持ちでした。
辛かったねとか、とんでもない悪い野郎だねとか、そういうんじゃなくてね。
目の前で、竜子が弱くてかわいそうな女の子の姿になって行くのが嫌だったんです。
そんなの絶対に許せなかった。
いつだって誰よりも大人で、うつろな瞳でけだるく笑って、カラオケで哀しい恋の歌ばかり歌って、何があっても驚かないで、肩で風切って歩いて、刃物のように強い女であって欲しかったんだ。
そういう竜子がいたから、私は失恋の痛みを閉じ込めて、背伸びして精いっぱいの大人をやれたんだ。
なのに竜子がダメになったら、私もダメになってしまう。
ぼろぼろに傷ついた私に戻ってしまう。
何でこんな話したんだよ。
ぜんぜん聞きたくなかったんだよ。
それが若い私の正直な気持ちでした。
この話をすることは、二度とありませんでした。
夏休みにもう一回、北海道に遊びに行きました。
ジョージさんとも竜子のお母さんとも、ごく普通に笑って過ごしました。
彼女の原宿のアパートはみんなの溜まり場で、行けば誰かと会えて、楽しく過ごせて、遊びの本拠地にもなって、思い出せばなんて豊かな時間だったんでしょう。
そのあと私が劇団の衣装を手伝うようになったり、お互い付き合う人が出来たりで何となく離れてしまったけど、竜子のことは今でもときどき思い出します。
誰も笑えない下ネタ、死ぬかと思った爆走急ブレーキの氷上スピン、真夜中に何もない時作ってくれたどんどん焼き、どれも懐かしい。
あの時私と同じように、竜子が誰にも言えない痛みを抱えていたことが、今はわかります。
今まで気づけなかったのは申し訳なかったけど、一緒にいてくれたことに、心から御礼が言いたい気分です。
(了)