実家の前の坂を降りて右に曲がったところに、肩をすぼめたみたいに建ってる細長い3軒の家がありました。 今はリフォームした住宅ですが、その昔はそれぞれ卵屋さん、葬式の花環屋さん、写真屋さんでした。 3軒が建つ前は、そこに一軒の平屋木造住宅がありました。 幼なじみのまさとくんの家でした。 私とまさとくんは同い年でとても仲が良くて、毎日のように一緒に遊んでいました。 2人でいったい何を話していたのかって? テーマはたぶん、世界で一番強いのは誰か、みたいなことです。鉄腕アトムと鉄人
むかし、目黒の団地に住んでいた頃、通いのお手伝いさんがいた。幼い私はそのお手伝いのおばさんの家に、何度か預けられたことがある。 代官山の駅のそば、踏切に近い古い小さな家は、囲炉裏が切ってあって、大きな柱時計が鳴っていて、白い割烹着を着たおばさんが、毎朝箒で勢いよく畳を掃いていた。誰をも包み込むような柔和な目、母性という言葉が相応しいおばさんの笑顔は、両親から離れた私をひとときも不安にすることがなかった。 電車だ!電車だ! 家の前は、巨大な高架橋が迫っていた。 高架の上を
◆紫色の残像 それから後の記憶は定かではない。 なぜなら、あたしは相当酔っぱらっていて、ここがホテルだと言うことを納得するまでに随分と考え込んだのは、酔ったせいだと思ってしまったからなのだ。四方を壁に囲まれていて小さな窓がひとつと、押入れだけの、四畳半ほどしかないこの部屋は、およそホテルの客室らしくない造りをしている。それは、酔っていなくてもきっと確かにそう見えるのだが、寝煙草の注意書きと出前のメニューが書かれた紙が、壁に貼られていて、隅にはティッシュの箱が置かれていた
◆指名代打 直也が店にあらわれたのは、それから2週間ほど経ってからのことだ。 その日、あたしは美緒子姉さんの知り合いの店で仕立ててもらった浴衣を受け取りに行ったので、少し遅れて店に出た。丈の合わない店の地味な貸衣裳を来て、クリーニング代を差し引かれるよりは、気に入ったものを仕立てて身に着けた方がずっと気分がいい。 「色っぽいね、沙貴ちゃん!」 政岡マネージャーは、露草の柄の浴衣姿を誉めてくれた。本当はマネージャーにそのひとことを言ってもらいたくて仕立てたようなも
◆雅な誘惑 店が休みの日曜日、あたしは午後から美緒子姉さんの部屋に誘われていた。政岡マネージャーに言われた通り、ごちそうさまでした、とお礼を言ったら、東京のひとり暮らしは寂しいだろうから、テレビでも見て涼みなよ、と気を使ってくれたのだ。 借りたばかりのあたしの部屋には布団と電話ぐらいしかなくて、クーラーやテレビなんてもちろんないから、その誘いかたはうれしかった。 昼少し前、コーラを買って来てがぶ飲みしていたら、電話が鳴った。てっきり美緒子姉さんだと思った。 「は
※1988年頃、「秘小説」か「官能小説」(東京三世社発行)に掲載、切り抜きを保存してあったものを文字起こししたので公開します。まだイラストは下手ですが、昭和のグランドキャバレーが舞台。私小説ではありませんが、半分ノンフィクションです。※ ◆一握のペニス 「沙貴ちゃん、あんたっていくつ?」 振り返った美緒子姉さんの目元は、いつになく濃いブルーのシャドウが塗りたくられていた。夏はブルーと決めているそうだ。 あたしが正直に20歳だと答えると、 「ま、いいか」とすぐに鏡に
私の叔母は、この近くの老舗店に嫁に行き、長く女将さんをやっていました。 東北の旧家の末娘として生まれ、蝶よ花よと可愛がられて育った叔母は、誰もがはっと振り返るような美貌には非常に不釣り合いなお喋りおばさんで、わがままで世間知らず。 嘘がつけないので、本当のことだけを言い過ぎて、ひんしゅくを買う。 でも悪気はないから今で言う天然ボケで、絶えず周囲を賑わせてくれる人でした。 幼い私はそんな叔母が大好きで、母に連れられて鶯谷の叔母の家を訪ねるのを何より楽しみにしていて、駅から続
散歩の途中、住宅街に見慣れない小さな森を見つけた。森に向かって歩いて行くと、神社の裏手に出た。初めて来た神社だ。せっかくなのでお参りして行こうと、鳥居をくぐる。東京にしてはあまりに広い敷地で、私の妄想は深山幽谷の森へ飛ぶ。そうだ、次に熊野に行くのはいつにしよう?ぼんやりと参道を進むと、私の前でおじいさんが柏手を打って参拝している。楊流の半袖シャツに、裾の短いズボン。後ろから見ると、右肩が妙に下がっていて、少しふざけているみたいに見える。 「アマテラス・・・」おじいさんは、振
2016年、それまで描いて来た官能誌、マニア誌、新聞などに掲載した原画の個展「さかしま」に寄せての挨拶文として書いたものです。 ※画像は個展DMと父の創作の1枚。 ***************** 1983年から2011年まで28年間にわたり、新聞・雑誌に性的マイノリティの世界を描き続けました。 仕事を通じて知り合ったSMクラブのオーナーや風俗嬢、トランスジェンダー、性解放活動家、風俗ライター、ふだんはごく普通の生活を送るマニア、同性愛者たち。 若い私は、彼らに囲ま
草間彌生さんの水玉模様。 あれを描くのは、統合失調症の幻覚や幻聴から身を守ってくれる儀式のようなものだとかいう話を聞いて、胸に響くものがありました。 ところで、東郷健さんって知ってますか? 参院選や都知事選に出馬するたびに、赤尾敏と戦っていたオカマの東郷健。 私、若い頃、大久保にあった東郷さんの家に居ついていて、ゲイ雑誌の挿し絵を描きながら、そこに出入りするゲイの人たちと遊んでいたんです。 地方から家出して来て住みついてしまったゲイもいたし、普段は茶道のお師匠さんで孫
熊野に「滝の拝」という聖地がある。 彫刻刀で削り取ったような鋭い凹凸の岩盤に、一筋の滝が滑り落ちていく。その滝を見下ろすように、一軒の民宿が建っている。そこに泊まると、まるで滝の上に布団を敷いているみたいに、ごうごうとさ流れる川の音の中で眠りに就くことが出来る。 「あのねえ」 朝食についてきたヤクルトを飲んでいると、宿の女将さんが声をかけて来た。 「よかったら、近くにええとこあるよ。あんた、せっかく東京から来たんやから、寄っとくとええ」 どんなところかと尋ねると、
「おい」 千吉さんが、細い肩越しに人差し指を振り上げた。 「眩しいから、ちょっとそこのカーテン閉めてくれねえか?」 真昼の日差しが、目にしんどいのだと言う。 私は、日用品が入ったプラスチックケースを ひっくり返さないように、水色の薄いカーテンを引く。 窓の外では干した下着が風に揺れて、すぐそこの高架の上を、西武線の黄色い車両が通り過ぎて行くところだ。 淡い日差しでなお明るいアパートの一室に、タタンタタン、と歯切れのいい車輪の音が響いた。 電車が行ってしまった後は、いつもの
私の家は、1961年に建てられた、篠原一男という建築家の芸術作品「から傘の家」です。篠原一男はもともと数学者だそうで、「緊張」と「内向性」をテーマに、寸分の狂いも許さぬ数字を用いてうちを設計したと言います。 赤の他人の芸術作品に住む。これがなかなか大変で、ある意味、災難と言ってもいいかも知れません。 うちの場合、家族がこのデザインを望んだわけではなくて、昭和30年代という時代背景からしても、新進気鋭の建築家の威厳に従ったという感じでした。 暮らしの利便性なんか一切省いて、
どぎつい電飾がまぶしい夜市、肉の焼ける匂いと香辛料の匂いが立ち込める賑やかな屋台の街を抜けて行きます。 ゲイとレズビアンが集まるというその店は、もちろん看板もなく灯りもつけていません。 さびれたビルの真っ暗な階段を降りて行くんですが、扉を開けると別世界。昭和のど田舎のナイトクラブみたいな風情なんですね。 かなり広く全体に暗く、ミラーボールの下、安いビブラートを効かせた生のエレクトーンが地元の流行歌を響かせていました。 日本からやって来た性別不詳の東郷一座は、広いボックス席に
1980年代。オカマの東郷さんは、よく海外旅行に行っていました。 目的は、旅先で男の子を撮影して自分のゲイ雑誌のグラビアを飾ることでした。 でも、ついでに世界のゲイバーを取材してみたいという野望もあって、まあ、この旅が毎度珍道中で、何せハプニングが絶えなかったわけです。 行くとなると、季節はたいてい夏。東郷さんは世界中どこに行くにも切りっぱなしの短パンに下駄のスタイル。 そのまんまで「あたしは世界の東郷健よ」と、顔色一つ変えずに言える人でした。 旅の一座の構成は、東郷家
私が当番の日は、サニーのご機嫌とりながらコイコイに興じたり、シャワー浴をさせてあげたり、買物や通院の付き添いをしました。 大したことはしてないのに、体の芯までへとへとに疲れました。 私の何百倍もそばにいて、酷い目にあった人たちには申し訳ないけど、見たくないサニーを目の当たりにするのが、死ぬほど嫌だった。 心優しいサニー像はものの見事に崩れ去り、「サニーみたいにだけはなりたくない」と会うたびに思ったものです。 いつだったか、入院したサニーの見舞いに行った時のこと。 病院でも厄