どう生きるのか
高校生最後の定期テストも終わり、高校サッカーもクライマックスを迎えようしている。
高校に入学してから、様々な人と出会った。
普段はおちゃらけているのに、いざとなると目つきが変わりスイッチが入る人。
政治的な話になると止まらなくなる人。
打たれ弱いけどその裏に強い負けん気を持ってる人。
関わってみると、その人の見えないところが見えるようになることがとても面白い。
それと同時に、自分の人生や生き方について考えるきっかけにもなる。
「どう生きるか」
正解なんて無いのはわかっているけど、自分の軸はブレブレで何も定まっていない。
そんな中、先日の古典のテストにて良い文章と出会った。
子曰、
「吾十有五而志于学。
三十而立。
四十而不惑。
五十而知天命。
六十而耳順。
七十而従心所欲、不踰矩」。
子曰く、
「私は十五歳のとき学問に志を立てた。
三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。
四十歳になると、心に迷うことがなくなった。
五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。
六十歳になると、人の言うことがなんでも素直に理解できるようになった。
七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、人の道を踏みはずすことがなくなった」と。
孔子でさえ、生き方というものに関して理解し、行動に現れるまでこれほどの時間を要している。
この文章を読んで、孔子が人生をかけて理解し、実践したことを、できるだけ早く自分もできるようになりたいと感じた。
今の自分は、
・心に迷うことは無いか
・自分の使命が自覚できているか
・人の言うことが素直に理解できているか
・自分のしたいことで人の道を踏み外すことがないか
答えは全てNoだ。
人に偉そうな口を叩くことも多々あるが、自分は迷ってばかりで、人の意見に左右され、素直に聞き入れることもできず、立派な生き方ができていると言えない。
そして、「なんでもいいよ」「どうでもいいよ」は自分が考えていないという事実を人のせいにするような言葉である。
その立派な生き方とは何かということである。
今目指しているのは、人から「偉いね」「立派だね」というものではなく、自分自身が納得して、100%自信を持てるようなものである。
もちろん、人から評価してもらえることは、嬉しいことであるし、それがモチベーションになることも間違いない。
ただ、他人に干渉しすぎて、他人の目線が自分の生きる上での中心になってしまうと、自分は自分でなくても良くなってしまう。
一度、監督から
「他人は変えられない。変えられるのは自分だけ。」
と言われたことがある。
その言葉には、
他人に干渉していても自分は変わらない。
自分を変えるには自分に目を向ける他ない。
という意味も含まれているのではないかと今では思う。
最近は、「今、自分の声を素直に聞けた」「この生き方だ」と感じることが少しではあるが増えてきた。
そういう小さな小さな成功体験のようなものを積み重ねて、自分という人間の価値を高め、人生の意義を見いだせるようにしたい。
孔子ですらあれほどの時間をかけたのだから、長い目で自分の成長、変化を楽しみたいと思う。
たった一度のこの人生をどうせなら華やかで楽しいものにしたい。
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