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戦後の特殊慰安施設(RAA)の功罪

(はじめに)

皆さん、戦後の日本に作られた特殊慰安施設(RAA)って知っていますか?これ私は、40年前、たまたま知ってから随分色々と、考えましたが、皆さんはどう思われますか?

(1)   まず、1982年頃の話です。

その頃私は東京の会社に勤めていて、ある時、東京の山手線に乗っていました。そこへ、黒人の若者一人と初老の日本人の女性二人、その弟らしい日本人男性一人が乗り込んできました。女性二人は五十七・八歳くらい、その弟は四十七・八くらいで、黒人の若者は二十歳から二十五歳くらいに見えました。この弟は今北関東のどこかに住み、それ以外は全員アメリカに住んでいて、何十年かぶりに日本に帰国したようでした。弟はアメリカ帰りの姉さんとその息子や友人を東京見物に連れて案内しているという風でした。黒人の若者はその日本人女性の息子らしかったです。彼だけは日本語が判らないようで、つり革につかまり、他の三人が日本語で盛んに終戦直後の進駐軍の思い出話をしているのをつまらなそうに眺めていました。彼らは、私のすぐ横にいたので会話が全部聞こえてきました。二人の初老の日本人女性は、終戦直後、仙台の米軍キャンプで生活し、アメリカ人の兵士とその後結婚して渡米したとのことです。敗戦直後のあの頃の日本は大変貧しかったのですが、「私がいた仙台のキャンプの生活は別世界で豊かだった、本当によかった。」と思い出を話していました。私はそれを聞いていて、何だか悲しくなったのでした。その時の気持ちをうまく言えないのですが、日本人の若い女性が生活のために日本を捨ててアメリカにすり寄っていったような気がしたのでした。その頃の日本の貧しさから仕方なかったことは、私も判っているのですが、若い私も、聞いていて彼我の豊かさの違いに打ちひしがれ、そこまでしてそれまで敵だったアメリカ兵にすり寄るのかと、内心、悲しかったのです。電車が東京駅に近づいたら、弟は「姉さん次ぎ降りるから・・」と言いました。すると、その女性は英語で黒人の息子にそのことを告げました。そして、みんな電車から降りて行きました。

(2) その後10年位して、1992年のころの話です。

つまり今から30年くらい前に、テレビを見ていたら、次のような話が取り上げられていました。その話は上の私の体験と重なりました。今はアメリカにいるその日本人女性は、戦後家族が食べられなくて、日本政府が公に募集したアメリカ兵相手の「特殊施設」の広告の条件があまりにも良かったので、家族の危機を救うため栃木県からこれに応募しました。飢えと貧困から逃れるためでした。しかし、これはアメリカ兵への公認の売春施設に他なりませんでした。そのため偏見や故郷の両親への影響を心配して、その後施設で知りあったアメリカ兵が帰国する際に、アメリカへ渡って結婚しました。とまあ、テレビの内容はこんな内容でした。こういう戦後の「特殊施設」の報道はそれまでもなかったし、またその後もほとんど見たことがありません。終戦直後に、このような特殊施設を作ったのは中央の官僚組織の発案のようでした。当時の関係者であった元首相の宮澤喜一氏が、この施設を作ったのは、一般の婦女子をアメリカ軍などの連合国軍兵士による強姦や性暴力から守るためだったと、1990年代にテレビのインタビューで言っていたのを見た覚えがあります。これらの施設では、公募に応じた5万人から7万人の売春婦が働いていたそうです。

(3)  2007年に出た本

しかし、「特殊施設」は黒歴史に近いことであり、ほとんど正面から取り上げられたことはなく、多くの日本人には知られていないことです。ただ、このことを正面から取り上げた本が、2007年、白川充さんによって、おそらく初めて書かれました。
 以下に2007年9月30日日経朝刊23面に出た書評を引用します。
○      白川充「昭和平成ニッポン性風俗史」展望社、2000円
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 敗戦直後に「特殊慰安施設協会」のちにRAA(Recreation and Amusement Association)と呼ばれた組織があった。
 RAAは政府関係者が占領軍の「性の暴力」を心配して民間業者に作らせた“国家的緊急施設”。旧遊廓や料亭などを利用し「進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む(中略)宿舎、被服、食料全部当方支給」の広告で女性達を集めた。
 広島の原爆の惨劇から十日前後しかたっていない時点で、アメリカ兵のための性の慰安所が政府によって企画されていた。戦争は一体何をもたらしたのか、ショックだった。国辱としか考えられない。
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(4)  2022年改めて必要悪という観点で考えてみました。

 今から40年前東京の山手線の電車の中で見た日本人の母親と黒人の青年を見たとき、私は嫌悪感が先に立ってしまって冷静に考えられていなかったです。しかし、40年後の今になって考え直してみると、誤解を恐れずに言いますが、RAAは一般日本人の婦女子を守るための必要悪だったのかもしれないと思うようになっています。アメリカ軍は、世界中で、自前の従軍慰安婦施設の設置を断固として拒否しており、それは理想としてはいいのでしょうが、現実には、日本より先に終戦を迎えていたフランスやドイツでは、駐留したアメリカ兵による、現地のフランス人女性やドイツ人女性への強姦や性暴力が多発して、大きな問題になっていました。そこで、それを知っていた日本の中央の官僚達は、敗戦直後から、特殊慰安所を作り、一般の婦女子の貞操を守ろうとしたという事が真相のようです。戦前の「従軍慰安婦問題」と戦後の「特殊慰安施設」は、同じ発想から来ていることがわかります。戦前の自前の「従軍慰安婦施設」は、自国軍の兵士による現地女性への性犯罪を防止して、戦地で外国とのトラブルを避けるためであり、戦後の「特殊慰安施設」は、占領軍の外国兵から、自国の婦女子を守るためだったことがわかります。理想としては、そんな施設などないに越したことはないですが、理想通りにはいかないのが世の中です。何年か前、フランス軍の北アフリカ、確か、アルジェリア、を舞台にした『外人部隊』(1933年)という映画を見ていたら、その映画の中には、フランス軍が帯同させてる慰安婦と慰安所の風景が出ていました。慰安所は、必要悪かもしれないです。

(おわりに)

戦後77年経ち、その孫の黒人の青年が日本で歌手になったりする時代です。深く考えると、このような職業に就いた女性たちがいたからこそ、戦後の日本の秩序が少なからず守られた、彼女らのお蔭だった、施設は必要悪だったという気にもなりますが、どうしても賛成できない自分もいます。黒い歴史で、あまり芳しい話ではないですね。皆さんは、戦後の特殊慰安施設(RAA)をどう思われますか。

*なお、冒頭の写真は、芝田 英昭,「敗戦期の性暴力 …国策売春施設R.A.Aの意味するもの(その1)」, 立教大学コミュニティ福祉研究所紀要, 第 9 号, 51-75(2021)から引用させていただきました。


2007年9月30日随筆
2008年3月2日修正
2022年9月30日加筆修正


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