見出し画像

2度の海外留学の思い出と液晶研究:1986年フランス・パリ、1996年オランダ・デルフト

(はじめに)


私は大変幸運なことに、2度、海外に研究留学をしています。最初は、1986年9月から1年間、フランスパリのグランゼコールESPCI、ジャック=シモン先生の研究室に行き、フタロシアニン系のディスコティック液晶の研究をしました。2度目は、1996年1月から5ヶ月間、今度はオランダのデルフト工科大学に客員研究員として滞在する機会を得て、ディスコティック液晶の伝導性の研究をしました。一生に一度しか留学できないという暗黙のルールが全国の大学教官の間にあるらしいですが、私は2度も留学したと同僚からうらやましがられています。下のお話は、私の留学した時の思い出を記しました。多くの皆さんにご笑覧いただければ大変嬉しいです。
 

[ 1 ] パリESPCIの思い出


 

(1-1)最初の留学先の教授はジャック=シモン先生


 
  私が1986年(昭和61年)に留学したところの受け入れ教授は、ジャック=シモン先生で、彼はまだ39歳の若さでした。彼はほんの2、3年ほど前までは、ストラスブールのルイ=パスツール大学で研究をしていましたが、パリの伝統あるグランゼコールの一つESPCI( エスピシと発音(1))の無機化学及び電子材料部門の教授として赴任し、新しい研究室を作りつつありました。そこへ私は彼の最初のポスドクとして、妻と1歳半の長男とともにフランスへ渡ったのでした。
 

(1-2)英語が通じないフランスで生活を始めた


 
  フランスに着いてまず、驚くほど英語が通じないことに苦労しました。今は違うかもしれませんが1986年当時は、日本の方がまだ通じるのじゃないかと思うくらいでした。当時のパリ市内はスーパーマーケットがあまり発達しておらず、八百屋は八百屋、魚屋は魚屋へ買い物かごを下げて買い物をするのです。店主の言うフランス語の値段が聞き取れなくて、私も妻も3カ月くらいは本当に往生しました。スーパーならレジの数字を見て払えるのでなんとかなるのですが・・。それで、私も妻もサバイバルのためフランス語をすぐ習い始めました。半年を過ぎてから、何とか聞き取れるようになり、生活を少しずつ楽しめるようになりました。ところで、フランス人は英語が分かっているのにわざとフランス語で答えるのだとよくいわれていますが、実は本当に英語ができないらしいです。日本と同じく12歳から初めて学校で英語を習い始めるので、年齢的に遅すぎるのが原因だと、全く日本と同じことをフランス人のシモン先生から聞きました。
 

(1-3)パリのシモン研究室に留学したいきさつ


 
  さて、シモン先生とは1984年頃から研究上のことで手紙のやりとりをしていて知ってはいましたが、会うのはその時が初めてでした。彼が1982年にJ. Am. Chem. Soc. に最初のフタロシアニンのディスコティック液晶の論文を出してから、ずっと彼の事を私は、注目していました。また、彼も私の論文について質問してくるなどお互いに気になる存在でした。私には、またフランスに当時もう一人気になる女性研究家のアン・マリー=ジル先生がグルノーブルにいて、この人にも是非会いたいと思っていました。ジル先生は金属錯体液晶のパイオニアの一人で、もしグラントが取れたら私の所に来いと言っていてくれていたのですが、シモン先生の方が先にグラントが取れたので、パリのシモン先生の方へ行ったというわけです。
 

(1-4)フランスと液晶の基礎研究


 
  当時の液晶の基礎研究はヨーロッパ、特にフランスが群を抜いていると私は思っていました。私がいたESPCIの当時に学長は、後に液晶でノーベル賞を取ったドゥジャンでしたし、ESPCIに隣接するコレージュ・ドゥ・フランスで当時いたジャン・マリー=レーンも、後にノーベル賞を取りましたが、ここで当時クラウン化合物の液晶の研究をしていました。また、以前このコレージュ・ドゥ・フランスにいたビヤールは液晶界の世界的巨星で、当時、ドゥジャンより有名であったように記憶しています。
 

(1-5)チャンドラゼカール先生、ESPCIで講演


 
  私のフランス滞在中、ディスコティック液晶の発見をしたインドのチャンドラゼカール先生がESPCIに講演に来ました。その時、スライドの第1枚目に私の論文が引用されていたのには驚きました。質問のときそのお礼を言ったら、「貴方がドクター太田か!」と言って偶然会えたのを大変喜んでくれました。このときホスト役に巨星ビヤールも来ていてチャンドラゼカールとビヤールと私の3人で写真を撮ったのは楽しい思い出となりました。
 

(1-6) フランス人の個人主義、日本人の集団主義


 
   フランスの液晶に対する研究はとにかく独自の思想を創造することに情熱を傾けており、極めて理学的でした。一人一人が独自の液晶に対するイメージを持っていました。日本では一つの研究室でボスが考えている液晶と部下の考えているものが異なっていれば、合意するまで話し合い、まずグループとしての統一見解のようなものを持っているでしょう。しかし、私がいたシモン先生のところでは、ボスのシモン先生が考えている液晶と助教授や助手の考えている液晶とは、どうも異なっていると感じました。別のフランス人も皆あらゆることに関してそうで、他人が考えていることには全く干渉しない個人主義が徹底していました。フランス人に、私が冗談で、「日本人が10人いたら1つの意見にまとまろうとするが、フランス人が10人いたら10個の意見がでてまとまらない。」と言ったら、「いやいや20個の意見が出るよ!」と混ぜ返されてしまいました。良くも悪くも、フランス人は個人主義で日本人は集団主義です。全くお互いに鏡像の関係にあると思いました。
 

(1-7)  ESPCIのキューリー婦人、コレージュ・ドゥ・フランスのシャンポリオン


 
 私のいたESPCIはパリ第5区のいわゆるカルチェラタンにあり、キューリー夫人が夫とともにラジウムを発見した有名なグランゼコールです。現在までに6人のノーベル受賞者が出ており、物理学と化学の専門の単科大学といったものです。入学試験の倍率はなんと250倍の超難関校です。正門にキューリー夫妻がラジウムを発見した場所であることを示す銘板が埋め込まれています。また歩いて行ける距離にある近所のコレージュ・ドゥ・フランスは400年の歴史があり、教授だけの研究専門の大学で、学生はいません。ここの教授に選ばれることは大変な名誉であるといいます。正門を入ると正面中央に、ロゼッタストーンを発見したシャンポリオンがスフインクスの頭に足をかけて考え込んでいる大きな像が飾ってあります。日本なら小学生でも知っているシャンポリオンですが、どういうわけか観光ガイドには全く載っていない穴場です。是非、カルチェラタンに来られた時は、一度これらの大学を訪れてみられては如何でしょうか。
 
注(1) ESPCIの正式名 = Ecole Supérieure de Physique et de Chimie Industrielles de la ville de Paris:物理と化学のグランゼコール。
 
 

[ 2 ] オランダ・デルフト工科大学の思い出


 

(2-1)2度目の留学先の教授はジョン=ウォーマン先生


 
   1995年の初夏の頃、突然学科長から呼び出され、明日までに文部省の在外研究員応募の書類を書いて提出するようにと言われました。明日までと言われても招聘状が間にあわないのではと言うと、明日が締切だから国際電話ででもして頼めと言われました。時差の関係があるので便利な電子メールを使うことにしました。そして、最近ディスコティック液晶の伝導度測定で独自の手法を用いて極めていい仕事をしているオランダのデルフト工科大学のジョン=ウォーマン先生に、招聘の可能性を打診しました。ウォーマン先生は12時間後、気を利かしてサイン入りの招聘状をFAXで送ってくれました。
 

(2-2) 英語の通じるオランダは高い教育レベルを誇る


 
   オランダに着いて驚いたことに、英語がどこでも通じることでした。どこのお店のおじさんやおばさんも、また床屋の主人も皆流暢な英語を喋るのです。聞くところによると、オランダ国民のほとんどが2、3ヶ国語は喋れるといいます。ホテルの受付やレストランのボーイさんなんかは英独仏+アルファができないとつとまらないらしいです。また、オランダ人学生の語学教育は徹底しており、皆完璧でした。研究室のゼミでさえ学生の発表は英語でやることと決められており、また、オランダ国内の学会発表も全部英語でした。恐るべき大学教育です。現在、ヨーロッパの大学はフランスもドイツもどこも崩壊寸前のようで問題が多いですが、オランダだけは正常に高等教育がなされていると感心しました。日本も大学生の学力低下が最近著しく研究指導に大変手間がかかるようになったとどこの大学の先生に会っても言われていますが、オランダ人の学生は学力も非常に高く研究指導にもそれほど手間がかからないようでした。日本はもう一度オランダから学ぶべき時期が来たのではないかと思いました。また、ヨーロッパでオランダほど日本人にとって住み易いところはないとも思いました。
 

(2-3)   オランダデルフトは、日本の京都みたいなところ


 
 さて、私の滞在したデルフト市は、日本の京都のようなところでオランダ建国の父オランニュ公のお城が残っており、住人の約15%が学生です。デルフト工科大学は約200年の歴史があり、工科大学としてはオランダ随一だと聞きました。
 

(2-4)  美人女子大学院生のアニーク=ファンデクラーツと液晶の伝導度測定


 
   私は日本から伝導度測定用に長年合成したディスコティック液晶から約50種を持参して、博士課程1年生の美人女子大学院生のアニーク=ファンデクラーツと、一緒に巨大なバンデグラフを使って伝導度の測定を行いました。ドイツのハーラーらの高速伝導性よりも、私が持参したサンプルの方が更に高速で、カズ(私のこと)はダイアモンドを持ってきてくれたと、ウォーマン先生に感謝されました。因みに私はヨーロッパの知人友人からは、日本プロサッカー選手のカズよりもずっと以前の1986年当時からカズと呼ばれていました。
 

(2-5) ディスコティック液晶と応用の芽


 
   さて、読者諸兄にはおそらくなじみのないディスコティック液晶の話が出たので、話の都合上ちょっと説明します。一般に良く知られている液晶材料は分子の形状がお箸のような棒状をしています。しかし、ディスコティック液晶はお皿のような円盤状をしています。この液晶は、インドのチャンドラゼカールらが1977年に発見しました。ディスコティック液晶の研究は現在(1998年)までの20年間を通して基礎研究が中心でしたが、最近、ディスコティック液晶中で高速の電荷移動が発見されたり、負の複屈折性を利用した液晶ディスプレイ(LCD)の視野角改善フィルムへの実用化などがあり、応用の面でも急速に注目されてきています。現在までLCDと言えば、材料的には、より電気の流れない誘電体(絶縁体)の棒状液晶の開発を目指してきました。ディスコティック液晶はこれとは全く逆に、より電気の流れる高速伝導分子配線などへの応用が将来期待され、従来とは全く異なる分野に応用されていくことになるでしょう。
 

(おわりに)


 

(3-1) 私と液晶研究


 
   私が液晶の研究を始めて今年(1998年)で丁度20年になります。私と液晶との出会いは、1978年に阪大の博士後期課程に入学したとき、教授の三川礼先生から液晶をやらないかといわれたことに始まります。三川先生は有機半導体がご専門ですが、丁度その年、山口大学に行っておられた液晶の物理化学がご専門の艸林成和先生が、阪大の教授として帰ってこられることになっていました。それで、それに合わせてということだったらしいです。ところが艸林先生の赴任が種々の理由で1年遅れ、私は三川研究室にいたままで液晶の研究を始めることになりました。2年目になって艸林先生が赴任されたのですが、今さら研究室を変わることもあるまいということで、三川研所属のまま三川先生・艸林先生お二人から同時に御指導を受けるというある意味で大変恵まれた状況で博士の学位を取りました。
 

(3-2) 大学だからこそできる研究


 
   私が古くから、高伝導性ディスコティック液晶の開発に興味があったのはこのような状況によるようです。異分野の融合ということが無意識のうちにあったものと思います。当初、三川先生は強蛍光性の液晶をやったらどうかといわれたのですが、私はそれまで無機ガラス中の遷移金属イオンのスペクトル研究をしていたので、有機遷移金属錯体の液晶の研究がしたいと申し出ました。三川先生は、そのような液晶物質は聞いたことがないがおもしろそうなのでやってみたまえと許して頂きました。文献調査をしたらこのような研究をしている人は当時皆無に等しく、フランスのマルテートとジル先生の論文が2つあるだけでした。
   このように私は20年間、多くのLCD関係の方々からは異端とも思える、金属錯体液晶やディスコティック液晶の研究を続けてきました。私は、異端とも思える基礎研究の中から新しい応用の芽が出てくるものと信じています。今後も大学だからこそできる研究を続けていきたいです。
 


平成10年(1998年)2月26日 随筆
令和5年(2023年)9月21日 加筆
 


*なお、冒頭の写真は、1987年4月1日にESPCIで撮ったもので、向かって左から、Ohta, Chandrasekhar, Billardです。

いいなと思ったら応援しよう!