リレーコラム:麺(花岡)
無類の麺類好きである。三食麺類でも全然いい。
朝うどん昼ラーメン夜パスタなんて最高だ。小麦粉でできた麺が好き。
私の父は、麺類は夜に食べるものではないという。きちんと白いご飯を食べないと気がすまない。
母もそんな父を理解してか、必ず夜は白いご飯に合うおかずを作っている。
ちょっとうちの父の話。
父は周りから「武士」と呼ばれている。(周りとは私の周りのこと。)
白いご飯を好むこと、贅沢を嫌うこと、己にストイックなこと、何よりハリソン・フォードに似ている彫りの深さからそう呼ばれている。
「武士」と呼ばれているが農家の生まれである。秋田の北の方の生まれで、もはや秋田都心部より青森のほうが近い地域。
冬にはどんよりした空から毎日雪が降り吹き荒れ、ようやく来た春には久しぶりに見る太陽にみんな心を躍らせると言っていた。(私は冬の秋田に帰ったことが2回しかないのであまり実感はしていない。)
子供の頃、どうしてもお腹を空かせた日があったそうだ。祖母の所用に付き合った父は、どうしてもお腹が空いてしまい、祖母に「ご飯が食べたい」と言った。
すると祖母はそこから近くにあった家を訪ね(もしかしたら農家の付き合いがあったのかも知れない)、「息子に一杯のご飯を食べさせて下さい」と頼んだそうだ。
田舎なので近くにコンビニだのファミレスだの都合の良いものはなく、一番早くご飯にありつくには人様のお宅で頼み込むしかなかったらしい。
その家の方は快く父にお茶碗いっぱいのご飯を与えてくれた。そのご飯の美味しさが忘れられないという。
父は、ナニモノに対しても感謝の気持ちを忘れていないのだと思う。
ご飯を食べられること、ご飯を食べるための仕事をもらえること、母がご飯を作ってくれること、そのご飯の食材を育てている人たちがいること、自分の口にご飯が入るまでに関わっている全ての人、事象。
だから食べ残すほどのご飯なんて望まないし、夜ご飯には白いご飯と納豆とそれに合うおかずがあれば充分だという。
食道楽とは全く別の人種である。
私の麺類好きはどちらかと言うとただの食道楽で、「白いご飯を食べるより麺類のほうがラッキー感あるし」くらいの考え方である。
実家に住んでいた頃、夜ご飯を作って待っていてくれていた母の目の前で冷凍パスタを解凍し、「ご飯これでいいや」とか言って白いご飯もおかずも残していた。
「疲れてるんだから特別感のあるもの食べたい」くらいの精神である。
母は何も言わず、「じゃあご飯はいらないのね」「おかずだけでも食べる?」と聞いてくれた。おかずを食べるときもあれば、いらないと答えるときもあった。
今考えると自分のことながら馬鹿だなぁと思う。
母が作ってくれたご飯をありがたく思えず、食材をありがたく思えず、自分の道楽を満たすためだけに母のご飯を残すなんて。
今は、旦那が炊事の9割を担ってくれている。私は料理が得意ではないので、だいたい旦那に任せてしまう。
旦那は自分が作った料理を私が食べるとき、必ず(本当に必ず毎回)「美味しい?」と聞く。
私が「美味しい」と答えると、旦那は幸せそうな顔で「良かったっ」と言う。
それだけで感謝になるのに、なんで私はたったそれだけのことに気づかず、今まで母のご飯をないがしろにしていたのだろう。
「ありがとう(有難う)」の対義語は「当たり前」だそうだ。
私は今までいくつの「ありがとう」を「当たり前」と思って生きてきたのだろう。
恥晒しになってきたので、今回はこのへんで。
次は鈴木さん、「対義語」で。