![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/143311704/rectangle_large_type_2_f89e089517ff02d7177138f1cc742f74.jpeg?width=1200)
【小説】根ネギのねぎぃ(5/5)
朝、いつも通りねぎぃの水替えをしようと窓際に寄ると、ねぎぃの雰囲気がいつもと違っていた。
「ねぎぃ?」
声をかけてみる。でも、返答はない。返答がないのが当然だと、私自身なぜか腑に落ちている。昨夜まであれほどよく会話した相手なのに、どこかもう、このネギは単なるネギだというふうに私は見ている。見た目は一緒。でも、生物的な空気感というか、人の気配みたいなのが今のねぎぃにはない。まるでそれまで取り憑いていた魂が抜けて、一般的な植物の一種に戻ったみたいな。
「ねぎぃ、お水替えよっか」
ひとり言をこぼしながら、確信する。これが最後の水替えになる。たぶん、今夜の食材に、私はねぎぃを使う。この感じのねぎぃなら、臆せず食べることができる。
さみしさは、あった。でも、そのさみしさを受け止められる自分も、確かにいる。
今この家に私だけが存在しているということ。それを受け入れられている自分を感じられる。だれかの不在に落ち込まなくなった自分が、自分でも心強かった。それはたぶん、会社復帰のめどが立ちそうだからとか、気になる人との距離が近くなったからとか、そういうことじゃない。
「晩ご飯、何にしよっか。何がいいかな、ねぎぃ」
返答はやっぱりなかった。伸びた葉の青みを見せることで、「焼くなり煮るなり好きにして」と言っている気がした。冷蔵庫を開けて、食材を点検する。そういえば鴨肉をブロックで買っていた。千住さんたちを呼んで、季節外れの鴨ネギ鍋もいいな。そこでねぎぃを使おうか。そう思うと同時に、ふっと気持ちが萎えていく。
ねぎぃをみんなで食べる。それは賑やかで、祝祭的な感じがする。けれど、私にとって重大なことに、千住さんたちを巻き込んでいるような気もしてきた。彼女たちは知らず知らずのうちに、私の一時の会話相手を食すのだ。もし、私が千住さんたちの立場なら。信頼している人から饗された料理に、別の大きな意味が潜まれていたとしたら。
「……私とねぎぃ、水いらずがいいよね」
朝食のための卵や野菜を取り出して、私は冷蔵庫を閉める。今夜は何を作ろうか。会話相手がいなくなってしまったので、晩ご飯のメニューに意識を向けながら、朝食作りを進めた。
買い出しのために家を出た途端に、スマホに着信があった。ディスプレイに浮かぶのは、古巣の会社名。千住さんならスマホからかけてくるはず。だから、予想はついた。
「ああ、どうも。深谷ですけど」
やっぱりか。電話越しに聞く元上司の声は、少しざらついていた。
「千住さんから聞いたけど、急で申し訳ないけど、あすの朝とか来てもらえたりするかい?」
「えっ? あすですか?」
深谷さんは行動が早い。そして、それに振り回されることもちょくちょくあった。
「そう。もともと欠員募集かけずに仕事進めてたからね。猫の手も借りたいくらいだ。早めに来てくれると助かる」
私の心変わりを恐れているのか、それとも彼なりに気遣ってくれているのか、ソフトな物言いで、なかなか急なことを言ってくれる。
「わかりました。でしたら、始業前にうかがいます」
「助かります。持ってきてほしいものは、またメールで送っておくから。じゃあ、待ってるよ」
待ってるよ。その響きだけ残して、電話は切れた。ほんとうに手が早い。あとになってじんわりと、あすから生活が変わるのだという実感が湧いてきた。
いよいよねぎぃを食べてあげなければ。
働きはじめてしまえば、きっとねぎぃの世話などおろそかになるはず。いや、どうだろうか。世話といっても朝と晩に水を替えるくらいだ。働いている姿をねぎぃに見せる? いやいや、あすからまた働きに出るからこそ、ねぎぃを食べてチャージしておかなくては。
定まらない思考のまま、私はスーパーに入店する。ねぎぃをどう調理するのかは、正直まだ、何も決まっていない。
いろいろ買い足したけど、結局何を作るのか決まらないまま、夕方になった。鳥もも肉でねぎまを作ろうか、と思った。でも、ねぎぃはそんな充分な収穫量ではない。刻んで味噌汁の浮き身にしよう、とも思った。でも、汁物ではなくておかずの一品としてねぎぃを扱いたかった。いっそねぎぃをまるかじりしちゃおうか、なんて野蛮なことも考えた。でも、せっかくならやっぱ手を加えたいと思った。
美味しく食べようといろいろ考えているこの時間もまた、ねぎぃと過ごす時間のひとつなんだとか思っていると、思った以上の時間が経っていた。そうして私は、ねぎぃをねぎぃのままにして調理することを先延ばしにしている。
「もう、いいや」
メニューをどうするか、なんて決まってもいないのに、私は瓶からねぎぃを取り出してまな板の上にのせ、「えいや!」と包丁でスパッ、と葉と根本を切り分けた。すると、す、と私の中で何かが片付いた。
あ、イケる。イケるぞ、私。
そこから私は、手が動くままにねぎぃを刻んでいく。ねぎぃの匂いがする。夏の匂いだ。ねぎぃを刻むことで、私の鼻が季節を先取りする。鼻腔が刺激されたせいか、懐かしい味を思い出した。記憶は曖昧だけど、たぶん、再現するのはさほど難しいものではない。
小皿にしょう油、砂糖、みりん、料理酒、ごま油、そして少しの豆板醤を加えて混ぜてタレを作る。フライパンに油を引き、刻んだねぎぃをさっと炒める。適度にねぎぃがくたぁとしたところで、タレを加えて火を弱める。たったこれだけで、「中華風あま辛無限ネギ」の完成だ。
湯気の立つ一品を見つめながら、私はネギの根本を瓶に入れたあの瞬間を思い返す。あの時はまさか、ネギが話しかけてくるなんて思ってもみなかったし、こんな芽ネギみたいなものを収穫するなんて想像していなかった。でも、まあ、いいや。ねぎぃはきっと、私のお腹を満たすために私と出合ったわけじゃない。胃袋とは別の空白を満たして、私を生かしてくれた。それで充分じゃないか。
箸でひとつまみして、味見する。タレの塩味が強い。でも、舌の上でネギの風味がふわっと広がった。
「……まだまだね」
中華風あま辛無限ネギはおかあさんがよく作ってくれた。といっても、子どもの頃からの味ではない。数年前に料理番組か何かで知ったらしく、試しに作ってくれたのをさらにいろいろと改良したのがこの一品だ。
おかあさんの味には、まだ遠い。たぶん、不足している調味料が何かある。でも、それを尋ねることは、もうできない。おかあさんを真似て作った料理を、おかあさんに食べてもらうことは、もうできない。
「おかあさん、おかあさん、って、いい歳してヘンよね」
涙は出てこない。でも、悲しい気持ちは確かに胸の一番やわらかいところに根を張って、枯れることはない。いつかこの気持ちを、自分の力だけで根っこからすぽん、と引っこ抜ける日が来るのだろうか。とりあえずまだ、育ちすぎないように気をつけながら、この悲しみを愛でていこう。
お味噌汁くらい作りなさいよ。
私の胸の中から、おかあさんの声が聞こえた。わかってるよ、言われなくても。鍋に水を張って、火を入れる。最近のお味噌は出汁入りだから、昆布も鰹節もすっかり使わなくなった。今日くらいは、とも思ったけど、なるべく特別じゃない方法で、今日の食卓を彩りたい。
味噌の香りがキッチンを満たし、私は炊飯器から炊いたばかりの白米をしゃもじでかき混ぜる。このほかほかのご飯の上にあのネギをのせるのだ。想像しただけで、よだれが出てくる。食欲は生きることへの欲。健康的な欲求がうれしくて、でも、その気持ちを共有できる人が近くにいなくて、さみしくもある。
さあ、ご飯にしよう。このさみしささえもかみ締めて、お腹の中に入れてしまうんだ。
もっと感傷的になるかと思ったけど、食べてしまうとなんてことはない夕食だった。ご飯を食べながらテレビを点け、クイズ番組の回答に頭をひねったり、深谷さんからのメールをチェックしたり(最近、食事中にスマホを見るようになった)、なんやかんやでねぎぃは美味しく私の一部になった。
ごちそうさま。
片付けるまでが食事だと、私はひとり分の食器を流しに運ぼうと腰を上げる。
「ちょっと」
不意に声がして、ハッと振り返った。流しの三角コーナーから、いつの間にか聞き慣れてしまった同居人の声がする。
「まだ捨てないでよ」
ネギの根本が、不服そうに言った。
「え、ねぎぃ?」
「そうよ! ねぎぃよ!」
喜びより、不気味なまでのその生命力に少し寒気がした。
「やっぱりあたし、あなたの孫を見るまでは死ねないわ」
ねぎぃは真剣な目で私を見つめている。もっとも、そこに目はなく、まだ芽もない状態だけど。
でも、私に孫ができる頃にはきっと、ねぎぃもひと花咲かせてるかもね。枯れていないといいけど。
いいなと思ったら応援しよう!
![いきものぐるり](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/133522553/profile_ef140a43b0aeb94622bebe5fc0e39a23.jpg?width=600&crop=1:1,smart)