創造的行為が苦手という話から世界観とアイデンティティまで

私がやっている(一見すると)創造的(に見える)行為というのは、既存のものを組み合わせることか、既存のものを分析・解釈することにすぎないように思える。私の創造物は、他人の創造物を部分的に取り出し、それを貼り合わせたパッチワークにすぎない。それも貼り合わせ方はありきたりなパッチワークだ。
もちろん創造的行為であってもこれらを一切含まない行為はないかもしれない。しかし創造的行為には「不自然な飛躍」が存在する。既存のものから自然に導かれるのではない飛躍、それはもしかしたら自然に見えるつながりの連続的な延長線上にあるのかもしれないが、しかしそれでも知識や経験の不足では説明しがたい断絶があるのもまた事実であろう。パッチワークの素材または貼り合わせ方に創造性は宿る。
変化があるとき、そこに自然さを見出そうとするのは一つの私の重要な性質であり、「世界の変化は自然な変化だ」というのは私の世界観において大きな位置を占めている。言い換えるのならそれは大きな「流れ」のようなもので、世界は自然な流れをもって運動していると言える。この流れは機械論的/決定論的な自然観や「神の意志」のようなものを仮定する世界観など、様々な思想と結びつけられるだろうが、詳しくは触れないでおこう。このような世界の中で生きる私もまたひとつの流れを持っていて、その行為も自然な流れの中で行われる。だから私のする行為は、意識的にせよ無意識的にせよ、不自然な飛躍を含まないようにならざるをえないのだ。
私のアイデンティティ形成においてこの世界観は当然ながら大きな影響を及ぼしている。私の創造的(に見える)行為は自然な行為であり、言い換えるなら誰もが同じものを創造しうる行為だと言える。その中でその行為を私がする理由はなんだろうか、私の創造物の価値はなんだろうかとたびたび自問していた。私なりの結論は、それがパッチワークであるにせよ、パッチワークの素材の選び方に自由度はあるというありきたりな結論だ。比喩を外せば、私の経験の集まりは唯一無二であるということだ。それは自然な流れの上にある経験かもしれないが、そこに固有性は存在する。どんなに似ていたとしても少なくとも時間的・空間的に同じ経験をすることはありえないのだ。そうはいいつつもパッチワークの素材となるような経験は被ってしまいがちだから、できるだけたくさんの素材を集めること、それが私のアイデンティティになっているのだと思う。

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