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遊びの達人

2021年12月1日 17時。

僕は自分の住む街を一望できる丘に立って夕陽を眺めていた。

東の空は藍色に染まり、かすかに茜色の残る西の空もじわじわと藍に飲まれていく。


美しい情景に心奪われ、公園で遊ぶ子どもの声を聞きながらしばらく佇んでいた。

そうして物思いにふけっているうちに、幼いころの褪せた記憶が色鮮やかによみがえってきた。



◇◇◇



幼いころ、僕は、夕陽が嫌いだった。

目にしたいと思ったことなど、一度もないと思う。


小学生のころ、放課後の数時間は僕にとって夢の時間だった。

学校にいる間に友だちと集まる場所を決め、終業のチャイムが鳴った瞬間、一目散に集合場所に向かう。

公園で野球をしたりドッチボールをしたり、時にはベンチでカードゲームや携帯ゲームで遊んだり。

この時間を楽しみに日々を生きていたといっても過言ではなかった。


今思い返しても、あのころの僕は遊ぶことを心から楽しんでいる「遊びの達人」だった。

物事に意味を求めずに純粋に楽しむ心を、今はもう、失いかけている。


だが、楽しい時間には必ず終わりが来る。

その終わりを告げるのは他でもない、憎たらしいほどに美しく輝く夕陽だった。

だんだんと周囲が暗い闇に包まれていくその様子に、夢の時間から現実に引き戻される感覚を与えられたことを、記憶している。



◇◇◇



20代半ばの青年になった僕は、西の街を照らす人工の光の中に落ちていく黄金の夕陽を見て、そんなことを思い返していた。

いい歳の大人になった今、当時は見たくもなかった夕陽の美しさに心を奪われる。

そして、少なからず大人になったんだな、ということを痛感させられるのだった。


それと同時に、遊びの達人だった幼いころの自分を、少し羨ましく思った。

先にも少し触れたが、大人になった自分は全てに意味を求めるあまり、物事を心から楽しめない瞬間がある。

わざわざ時間をかけて夕陽を見に行くのも、意味を求めない時間の素晴らしさを感じたい、という思いがあるからだ。

(皮肉にも、こうして自分を見つめ直す、大変意味のある時間になってしまっているのだが。)


意味や背景を追い求めて物事を見るのはとても楽しい。

これは、僕の性分であり、僕という人間のおもしろいところでもあると思っている。

しかし、時には純粋な子どもの心を取り戻して、遊びの達人に戻りたい。

そんなことを考えていた。


気づけば街は濃藍に包まれて、公園で遊ぶ子どもの声もまばらになっていた。

人工の街灯が施す微かな灯りを頼りにしぶとくボールを追い続ける少年に、かつての自分の姿を見た気がした。



◇◇◇




帰り道、家族の温かさが伝わってくるような暖色の光を浴びながら、閑静な住宅街を歩く。

まだ12月頭だというのに壁面が豪華絢爛なクリスマス仕様になっている住宅を見て、この家の主はきっと、遊びの達人だな、と羨ましく思った。


しかしまあ、数年前の自分はこうして散歩をすること自体、意味のないことだと思って敬遠していたと思う。

少しはかつての心を取り戻すことができたのだろうか。


そんなことを考えた矢先、早く帰って仕事をしなければ、と焦った自分が早足になっていることに気づくのだった。

20年余りで儚く風化してしまった遊びの達人の心は、生涯をかけて取り戻すことになりそうだ。



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