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くつひもを「結べる」のか「結ばされている」のか。

最近よく、くつひもがほどける。

道の脇で身を屈め、これまで何百、何千回と行ってきた動作でくつひもを結び直す。その動作を行うたび、とある疑問に頭を支配される。


「なぜ自分はくつひもを結べるのだろう」


◇◇◇


くつひもを結ぶとき、僕は無意識に蝶結びを行う。だが「結ぶ」という動作は決して簡単な行為ではない。
「普段と輪の向きを反転させて蝶結びをしてください」と言われれば、多くの方は多少なりとも手こずることだろう。

蝶結びを誰からも教わっていない人が、"私たちがなぜか共有している"あの「蝶結び」にたどり着くまでにどれほどの時間を要するのか。もしかすると、一生かかってもたどり着かないかもしれない。


私たちは、なぜかくつひもの結び方を知っている。
しかも、(少なくとも僕は)学校で習ったわけではなく、いつの間にか知っていた。多くの場合、生活の知恵として家族から教わることだろう。

だが、その指導が各家庭で均一に施されていることは、奇跡的な事象ではないだろうか。
「くつひもの結び方は家庭で必ず教えてくださいね」と義務付けられているわけでもないのに、である。


現代ではウェブ検索で独習できるかもしれないが、それ以前は本や口伝でしか伝えられてこなかった。くつひもの結び方だけでなく、小さな暮らしの知恵や桃太郎に代表される民話など、なぜか誰もが知っている事柄は無数に存在する。

生活に必要な事柄を口伝で伝えるのは、今も昔も変わらない人間の特性なのだな、と改めて考えさせられる。人間が持つ「言い伝える」能力。これは、僕が非常に関心を惹かれる事柄である。


◇◇◇


現代における「蝶結び」の伝承に一役買っているものとしては、スニーカーが真っ先に思い浮かんだ。

調べてみたところ、スニーカーは1900年代後半に日本で広がりを見せたそうなので、2024年の日本に生きている人の多くがスニーカーを履いたこと、もしくは触れたことがあると想定できる。


これは少々奇怪な発想として読んでほしいのだが、僕は「スニーカー」という存在が人間に蝶結びを要求していると感じ、不思議な感覚に陥ることがある。人間の能力の範疇で扱うことを前提にしているスニーカーが、逆に人間に学習の必要を強いている感覚だ。

道具を使いこなすために学習が必要なのは、なにもスニーカーに限った話ではないが、近年は道具が人に求める学習量があまりにも多いと感じてしまう。

こと蝶結びに関しては、「ひと手間」で覚えることができるが、ものによっては技術の習得により多くの時間を要するものもある。

言わずもがな、その筆頭となるのはデジタルデバイスだ。


また、スマホやパソコンをはじめとしたデジタルデバイスは、明らかに人間が自然の中で生きていて出会うシロモノではない。自然に存在しないものである以上、デジタルデバイスに関する知識や操作は、本来は生活…いや、「生存」に必要なものではないだろう。

「結ぶ」という行為は人間が自然界で生存するために必要であろう能力だ。物をつるしたり、固定したりする行為は原始時代の人類でも行っていたことだろう。対して「タイピング」が人間の生存に必要かと言われれば、それは違うだろう。

しかし、現代の世界では、もはやタイピングは「準・生存に必要なもの」くらいになっていると言って差し支えない。人間が本来必要としていない能力が、道具によって必要なものとして要求されるようになっている。

もちろん、この驚異的な適応力が人類の発展を支えてきたことは言うまでもない。だが、その適応力の高さがもたらす急速な進化に、僕はどうしても不安を抱かずにはいられない。


人間の生活や文化はこれまで常に変化を続けてきた。スニーカーの流行によって蝶結びの必要性が高まるように、人間がその時代を生きていくためのスキルも変わっていくものだろう。

ただ、ITスキルはその範疇を超えている気がしてならない。
本来は生存に必要ないはずの技術や知識を、あまりにも多く要求しているのではないだろうか。
人間が「機械を操作するための存在」のように見えてしまうのは、SF作品のの見過ぎなのだろうか。


科学技術の発展はこれからより加速していくことだろう。その進化は今後、人類にどんな変化をもたらすのだろうか。

残念ながら2024年を生きる私たちは、過去を眺めるときのように、高台から現代世界を俯瞰して見ることはできない。

100年後、2024年が歴史になった時。
人々は過去に生きた私たちをどんな眼で見つめているのだろう。

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