友愛への疑念と希望的観測
最近、愛について研究している。愛の研究を始めた理由は、簡潔に言えば自分と世界を理解するためで、愛を実感したい、愛を与えたいと考えているから。詳細は割愛する。
愛というと、アガペー、エロース、フィリアの3つが有名かもしれない。このうち、フィリアは「友愛」を意味している。
「友愛」と聞くと大それたことに聞こえるが、「友情」は少年漫画の代名詞とも言えるテーマだし、「男女の間に友情はあり得るか?」もよく議論される話題だろう。
友情、と言い換えれば、想像は難しくない。友だちの少ないわたしだけど、友情を感じている友だちはいる(相手も感じてくれているように思うが、それは相手の内的なものなのでわたしの及ぶ範囲ではない)。
しかし、今日読んだ愛について書かれた本のなかで、ひっかかりを感じる部分を見つけた。それは、「友愛は、相手のなかに見る自分に対する愛情なのではないか?」という視点だ。
つまり、自分自身を見るための手段として相手を利用しており、相手そのものを愛しているわけではないということだ。友愛の本性は、相手を通して見ることができる自分への愛、というするどい指摘だった。
たしかに、「この人といるときの自分が好き」と感じる相手を選びなさい、と訴えるSNSのささやきはよく目にする。何を隠そう、わたし自身についても、「この人といると無理しないでいられる、ほんとうの自分でいられる」と好ましく感じて相手に親しみを覚えることはある。それは言ってしまえば、相手を利用して、心地よく望ましい自分になり、そんな自分を愛しているということだ。
また、「相手を通して見ることができる自分」は、「(実物の自分とは別個に、)相手のなかに存在している自分」のことなのかもしれない。相手のなかの自分が望ましい姿であるから、望ましい姿を勝手に生み出してくれる相手を都合よく、好ましく思うのだ。自分を「すごい!」と感じてくれる人が好きとか、自分のことを好きな人が好きとかが当てはまるだろう。
友愛は自分と切り離せないものなのか、利己的な愛情なのか。それは愛なのか。
そう考える一方で、自分が心地よく望ましい状態でいられる相手といっしょにいることに何の問題があるのだろうという気持ちもある。愛だけではいっしょにいる必要はない、というのもつ常々考えていることだ。
わたしは、愛とは「自分との関わりに関係なく、相手の幸せを願うこと」だと考えている。自分との関わりに関係なく、なので、自分と相手との関係性の有無を問わない。言い換えると、見返りがあろうとなかろうと関係ない。ただ「相手の幸せを願う」ことが重要で、愛はそれだと思う。それゆえ、愛する人といっしょにいる必要もまったくない。
友愛については、「友情を感じる相手に対する愛」とシンプルに考えていた。
その考えは変わっていないが、友愛について新たな視点かつ疑念を得たので、今後検討していきたい。そもそも友情と愛情は別のものなのか。掘り下げる部分はそこだ。
思うに、友というのは磨き合い、高め合う相手なのではないだろうか。いわゆる「ライバル」だ。切磋琢磨する関係性を友と呼ぶのなら、「ともにいたい」と考えることはすこしも不思議ではない。友情にはどこかで必ず相手から受ける自分への影響があるのではないか。
相手から受ける影響を好ましく思う、思い合うからこそ友情が成立する。それに加えて、相手の幸せを願う。願うだけでなく、相手の幸せのために行動もする(影響を与える)。それが友愛なのではないかと考える。
それは、相手によって望ましい自分が発露し、それを愛するという面もあるだろう。だけど、決して利己的な、ただ鏡を見る人間のような関係性ではなく、ぶつかりあい輝かせあう原石たちのような関係性だと信じたい。