日本学術会議×軍事研究の話
最近、日本学術会議が話題ですね。
色んな論点が噴出しているようですが、ここでは、軍事研究について、参考文献を紹介したいと思います。
日本学術会議に意味があるとかないとかいう時に、重要な論点の一つとして、「軍事研究を否定する」(2017年3月24日の声明「軍事的安全保障研究に関する声明」PDF)ということの是非が、出てくるようです。そもそも研究内容に制限をかけてくることが学問の自由を侵害しているのではないか、あるいは国益を損なっているのではないか、そういう集団に国が金を出す意味はあるのか、など。(この現象自体、面白いよね。)
で、それについて色んな議論が自由にあってめちゃくちゃ良いと思うのですが、そもそもまずは、この声明について、既に明らかにされている色んなことを整理して確認したうえでやったほうが、ぶっちゃけ有意義じゃない?という部分もあるだろうと思うので、ちょっと簡単に。
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結論:日本学術会議と軍事研究の話については、『戦争社会学研究4』(2020)の「特集1:軍事研究と大学とわたしたち」(6~65頁)をお読みいただくと、2017年の声明の経緯と、日本における軍事研究に関する問題点が整理されて、有意義な議論が展開できるのではないかと思います。
以上。
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おまけ:この『戦争社会学研究』は、戦争社会学研究会の会誌です。2020年6月に刊行されたばかりの『戦争社会学研究4』の巻頭に、「軍事研究と大学とわたしたち」という特集が組まれています。これは、2019年4月の第10回研究大会の中で行われた、一般公開のシンポジウム「軍事研究と大学とわたしたち」の議事録になっています。(他の記事ももちろん面白いよ!)
で。本当にこれそのものを読んでほしいのですが、まぁそう言って本当に読んでくださる方は100人に1人いないだろうとも思うので、簡単にまとめてみます(※私の「簡単に」は「めちゃ長い」ので注意)。
①井野瀬久美惠(甲南大学)さんの報告「軍事研究とわたしたち」では、「学術会議の声明がどのように発され、何がどう議論され、あるいは何がどう議論されなかったのか」(9頁)ということが、時系列や問題意識に沿って、報告されています。井野瀬さんは声明発表当時、日本学術会議の副会長で、2016年5月設立の「学術と安全保障に関する検討委員会」の委員として例の発表に関わっておられたので、学術会議の「中」での経緯ということになります。
(早速脱線ですが、井野瀬さんといえば、『大英帝国はミュージック・ホールから』(1990)がめちゃめちゃ面白いです。戦争・帝国主義と大衆芸能の関係について分析されています。なお、これ書いてる私は、芸術研究の人間です。)
で、軍事研究と学問の自由についての先の声明(PDF)と、その解釈・理解を明文化した報告/提言(PDF)があるのですが、その発表までの過程については、検討委員会のページで、全ての議事録が公開されています。井野瀬さんの報告によれば、「毎回速記者が入って詳細な議事録が作成され、審議のために準備された膨大な資料や関連新聞記事とともに、すべてウェブ上で公開されました。委員会も全て公開で行われたことと合わせると、議論の透明性・公開性はしっかり担保されていたと考えます。毎回、10社以上のメディア、50人を超える市民の傍聴を集め、さほど広くない会議室が熱気であふれていたことを今も記憶しています。声明発出の一ヶ月余り前、2017年2月4日に学術会議講堂で行われた公開フォーラムにも、数多くの市民の参加を得ました。そして3月24日の幹事会で承認、公開された『声明』が、その解説となる『提言』と共に、2017年4月の総会で報告された」(14頁)ということで、決して議事録を廃棄したり、非公開で決めた解釈変更ではない制度変更に基づいた前例を踏襲したり、というような不透明な世界ではないので(皮肉だよ!)、まぁそれも読み直してもらうといいのではないかと思います。
(脱線続くけど、新型コロナウィルス感染症対策専門家会議の議事録も、最初期から沢山の資料とともにに公表されており、かなり最初の段階から、専門家会議がキレてるなという感触が文章にありありと出ているにも関わらず、私の周りの研究者には、この議事録を読むこともなく、「専門家会議は政府の傀儡なのか、それとも政策を操る裏ボスなのか、不透明だ!」みたいな感じで言っている人、すごい多かったよ~。研究者は、公開された資料はちゃんと読んで、読解でき、実際ちゃんと読んで読解しているものだと思っていると、大間違いだよ~。多くはあなたの出した資料や原稿や報告書やらはサラッと読み飛ばされてすぐ忘れられるか、よくて「よく読め」で終わるような誤読に満ちたケチをつけられるだけなのが普通だよ~)
で、井野瀬さんの報告では、その過程の再確認と、その後の議論の継続と障壁、その後新たに出てきた問題点、大学の変容と若手研究者と研究費との関係なども、整理されています。私が気になったポイントは、次の二点。
・某学会員へのアンケート調査では、20代と30代の若手研究者(特に20代)では、軍事研究に賛成の人が多い。(これは次の②の報告とも繋がるけど、世代ごとの戦争への意識問題の変化に加え、研究資金をどうやって調達するのかっていう、キャリア形成の問題と強く関わる。)
・大学だけが研究機関じゃない。文部科学省が発表している『文部科学統計要覧』から「日本の科学者88万人」の構成をみると、2015年の集計で、工学系は企業に所属する研究者が全体の8割強で、同じ8割強が大学に所属する人文・社会科学系とは対照的。日本学術会議では大学を想定してひとまずの声明を出したが、当然、現実の研究者の実態に即して、もっと様々な人たちと対話を行い、考えていかなければならない。(なお、2019年の統計はこちらの「17.科学技術・学術」(EXCEL)で見られます。そのうちの「研究者数(組織別)」「研究者数(専門別)」をみると、2019年では日本全体では、大学所属の研究者は38%、企業所属の研究者が58%。分野別にみると、自然科学の研究者では、大学所属が25%、企業所属が70%なのに対し、人文・社会学・その他の研究者では、大学所属が90%、企業所属が7%となっています。)
②喜多千草(関西大学〔当時〕)さんによる報告「アメリカとデュアル・ユース」では、アメリカにおける研究と軍事利用との関係について、日本とは異なるアメリカの事例をあげて、論点を整理してくれています。
一つ目は、日本ではデュアル・ユース(軍事利用も民生利用も出来る技術)というと「悪用」というイメージでとらえらがちだけれど、アメリカでは冷戦後、巨大な軍事予算を使ってきた国立研究所のあり方として、ARPA(高等研究計画局)による支援が起こった、という話です。現代だと例えば人工知能や自動翻訳への支援が大きい。(参考文献は、議会のテクノロジー・アセスメント委員会による『Defense Conversion』(1993))。
二つ目は、アメリカの研究費の事情について。日本の文科省の科研費に該当するのが、アメリカではNSF(全米科学財団)に当たります。そもそも、敗戦した日本では、大学などの研究機関が「軍事研究に戦時中に取り込まれたことに反対し、『もうしない』という立場の声明を出しているのとは異なり、アメリカの場合は、それを科学の成果として誇ってきた」(25頁)という、「軍事」に対する意識が違うというのが出発点です。そのため、NSFに加えてアメリカでは、ONR(海軍研究所)をはじめ、陸軍や空軍といった軍の研究支援組織が研究助成を行っているのですが、そこから研究者が研究資金を得るということが、社会的にマイナスイメージを付与されない、それどころか、軍事研究にどっぷりつかった人が、断罪されるどころか研究者として大成し学会長になるなど「一流」と見なされていくことが可能である、という話。良い・悪いの話ではなく、「国からの予算をもらう時に、軍を通じてお金をもらうという体制が、アメリカでは定着していく」(26頁)一方で、日本では、軍事利用されうる研究に携わると、それだけで研究者として評価されなくなる可能性が高いという、社会構造のあり方が、特定の社会規範を形成し、それが「学問の自由」をどう考えるかという話において、研究倫理と密接に結びついている、という指摘です。
・これ多分、若手研究者が「軍事研究は悪」と一直線に結びつけなくなったということとも関連してて、社会規範がちょっとずつ変わっているのだと思う。日本ではそれがジェネレーションギャップとして出てくるんだろうけど、それをどう日本の研究界あるいは研究界を取り巻く社会の「総意」にまとめていくか、めちゃくちゃ議論が紛糾しそうで楽しみ。
三つ目は、軍事研究を否定する動きがアメリカでも出てきたときに、実際に何がどうなったのか、という話。「同じ技術で、しかも軍事転用同士であっても、自国の軍隊が使う場合には国益にかなっている。他国の軍隊が使う場合には、悪用であるというような、立場の違い。誰が何を軍事利用するのかによっても、評価が変わるということがあります。日本の場合は、軍備を持っていないという国になっておりますので、形式上は、自国利用はないわけです。ですので、日本の場合は、軍事利用される場合は『悪用』という以外はない。しかし、そういう建前が、実際は軍事産業があり、〔省略〕作ろうと思えば核兵器を作れる力を持つための政策という側面がある核開発においても、平和利用という建前を持ってきた」(28頁)という指摘は、非常に論点がはっきり整理されていて、面白いと思います。単に、個人の感傷的な受け止め方として考えるのではなく、制度上、整合性は取れている、という話です。
・個人的に面白かったのは、軍事システムの一つとして、研究機関や学術論文をまとめた研究者コミュニティでもあるネットワークを作ることで、他国に対する自国の国防・国益・安全保障に繋げようとした、J・C・R・リックライダーさんの話。つまり、国内で研究し、それを業績として積み上げていくという行為そのものが、今では軍事的な安全保障とめちゃめちゃ結びついているんやで、っていう。単純な話、「国内の研究者に国がどれだけ支援し、研究成果の蓄積があり、政策に活用されていますか」ということが、現代社会の「国力」の評価対象の一つであり、それが現代社会における軍事的安全保障の一つである、ということ。あらゆる研究内容が軍事協力になりうる、という話ですらない。研究活動をするということ自体が、軍事協力なのである。
・あと、軍事機関からの金銭的支援を受けることで、やはり研究の独立性を保つのは難しいという観点から、CPSR(社会的責任を考えるコンピューター専門家の会)の創立メンバーの1人で、今は軍事予算に頼らない研究生活を続けているテリー・ウィノグラードさんの話も面白い。一つは、現実的な研究者の研究資金の問題について、「自分がそれをできるようになったのは、テニュアがとれてからだと。大学での立場がしっかりしたものになったから軍事研究費は受けないということができているけれども、」「そうでないと、ちゃんとした成果が上げられないので、」「ジュニアな立場の研究者であれば軍からの予算を拒否できない」(35頁)と明言しているという点。もう一つは、彼は自身の研究室の教え子からGoogleの創始者が出るなどした関係もあって、軍事研究費ではなく民間から研究費をもらうということをして研究をまわしていたが、そもそも民間会社であるGoogleが軍事協力をするようになるという話が出るなど、結局、「民間の研究にも同じような問題がでてきた」(37頁)という点。これこそが現実なわけだけど、その中でどうやって「学問の自立性」を考えるのか?そもそも「学問の自立性」とは何か?という問題提起。
③山本明宏(神戸市外国語大学)さんによる報告「戦後民主主義と原子力研究開発体制」では、1950年代初頭の原子力開発をめぐって、日本の科学者たちがどのような思想と存在感を持っていたかを明らかにしています。
これは、井野瀬さんたちが2017年の日本学術会議の声明で「継承」した、1950年4月28日に日本学術会議が出した「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」(PDF)に関する背景や経緯を、日本学術会議発足の経緯から見直し、いかに日本学術会議が政府の政策に影響力があったのか、ということも考察されています。テクノクラートと呼ばれる、「政府などと渡り合って制度を作っていくような行政管理的な役割をする科学者たち」(40頁)と、人文科学系・マルクス主義系・理学部系の基礎科学系の科学者たちの間の攻防が、いかに同時代の社会規範と関わりあい、社会の中ではぐくまれ、また社会を変えていったかという、とても重要な指摘です。
日本学術会議の発足に関わった、日本学士院、学術研究会議、日本学術振興会、民主主義科学者協会、という各団体、そしてGHQとこれらを橋渡しするはずだったが匙を投げた科学渉外連絡委員会の話だけでなく、武谷三男のように「学術会議の外でジャーナリスティックに活動することが、議論の土台を作っていく」(42頁)人が広範な議論を巻き起こすために活躍した、という状況などを改めて見直し、現代的視座を提言されています。
・私が一番面白かったのは、最初に事例として出された、「ポケモンGO」の例。CIAが運営する非営利のITベンチャービジネス支援機構In-Q-Telは、ドローン技術・3Dプリンタ・3Dマッピングなどに投資をしているわけですが、3Dマッピングの技術を使っている「ポケモンGO」を楽しんでいる子供たちを見て、「軍事技術だから」とか「カネの出所がCIAだから」とか言っても、もうそこで拒否反応は起こらない時代だよねっていうのが、現状なわけです。軍事技術や安全保障が、「資本と人々の娯楽に密接に結びついていく」(38頁)状況で、また現代は国家間の戦争というような「分かりやすい」戦時体制にあるわけではなく、日常の中で「戦時」と「平時」が溶け合うような状況で、軍事と民事を分けられるのか、という問題提起(余談ですが、In-Q-Telは、Googleが買収してGoogle Earthの元になった技術を持つKeyholeにも投資していたし、脅威インテリジェンスサービスを提供するRecorded FutureにもGoogleとともに投資して、インターネットを使った我々の動きを隅から隅まで監視しているわけでもある)。それを決める社会の中に、大学も研究もあるのであって、社会から完全に独立することは出来ない。いつまでも「学問の自由」とか言ってないで、今度こそ本気でそこに向き合うべきときなんじゃないか、という話が、フロアとのあいだでもされています。
全然「簡単に」まとめられなさすぎで、コメンテーターからの指摘やフロアとの議論はここではもう取り上げませんが、どのような立場から議論をするにせよ、ぜひ、お読みいただくと、より議論が深まるのではないかと期待します。
最後に、司会の蘭信三(上智大学)さんのまとめを載せておきます。
「今日はよく線引きの話が出てきましたが、白か黒かとか、そういう話ではなく、白に見えていたものはよくよく近づいて分析的に見ていくと、これは灰色だったんだと。また、黒だと思って遠ざけていたものの中には果たしてそれは自分の先入観だけで、黒として断罪していないかどうか。そこをもう一度立ち止まって問う姿勢が、研究者としては大事であります。なおかつ、〔省略〕我々の分析の網の目というか、その精度を上げていくことによって、グレーというものの状況をきちんと把握していくことが大事だと。
そしてそれを単に我々が理解するだけではなくて、社会的に共有し、それを出発点として、どう問題意識の共有をはかれるかということが今後に向けて大事な作業ではないかというふうに感じました。今後は、今日登壇していただいたみなさんや、ここにお集まりのみなさんも含め、継続的に何かこうした議論を深めていくということが求められているのだろうと思います。」(64~65頁)
ということで、日本学術会議についての議論の中で、「軍事研究を否定する日本学術会議は不要だ」という立場の方々が日本にも沢山いるという現実が明らかになった今こそ、まさに、議論を深めていける、よきタイミングだと思います。どうぞ皆様には、継続的に議論を深め、単に研究者が理解するだけでなく、社会的に共有し、それを出発点として、どう問題意識の共有をはかっていくか、新しい世代の人たちが置かれている現実的な問題にも目を向けて、しっかり対話をひらいていって頂きたいです。
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結論:日本学術会議と軍事研究の話については、『戦争社会学研究4』(2020)の「特集1:軍事研究と大学とわたしたち」(6~65頁)をお読みいただくと、2017年の声明の経緯と、日本における軍事研究に関する問題点が整理されて、有意義な議論が展開できるのではないかと思います。
以上。
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