コンセプチュアル・アートの中で。
どこから説明していいのか戸惑います。小野洋子のコンセプチュアル・アートの事なのですが。想像や抽象的な観念を言葉で指示、示唆し、抱かせることを目的化したイントスラクションを詩集のような形で発表、『グレープ・フルーツ・ブック』はやはり小野女史のひとつの原点でしょう。
ダンナが年明けから再び旧知の音楽仲間と組み、大々的な活動を再開しようとしている。自分にはもうダンナに対する若き日のような愛も情熱もないし、ダンナの方も自分と別れたがっているフシがあるようにも感じる。
その時、小野女史が思いついた芸術家としての方法論。このダンナを永遠の存在として、自分のアート作品としてのキャラクターに作り変えてしまうこと。そのためには、ある手段を用いて間接的にダンナを亡き者にすればよい。それにより、今度は自分の自由自在に取り扱えるイメージ・キャラクターとして、ダンナは永遠を手に入れられるようになる。とまでは言いません。言いませんが、アルバム『シーズン・オブ・グラス』で早々と小野女史は『ジョン・ウィンストン・オノ・レノン』という作品を己の自在に操れるコンセブチュアル・アートの新作として扱い始めたのではありますまいか。『マイ・マン』という曲もありました。剥製化された三島由紀夫が、丸山明宏演じる黒蜥蜴のコレクションにされてしまっていた、あの映画をどうしても思い出してしまう。
40歳までの現実でしか、自分を遺せなかったかわいそうなダンナ。もっとやりたいこともあったでしょうに。女房子供を捨てて、新たに「失われた週末」を始めたかもしれない、だいたい、本質的には度を超えた底意地の悪い、辛辣極まりないイヤな奴だったというキャラクター、ダコタの妖婆に骨抜きにされ、愛と平和のメッセンジャーとしてのイメージ・シンボルにされてしまって幾星霜。といったところでしょうか。80歳にして存命していたとすれば、あの時代の作品の全否定、それでこそがレノンのような気もするのです。
平和憲法にも守られているし、日本人にはイマジン主義者のレノニストが多いのは承知しています。ベッドインやドングリを使って平和運動と称していた、あの時代の二人のロマンチックな在り方の中には、どこかリアリティを拒んだようなアナキストの夢ともいうべき歪な理想論がありました、しかも有効期間限定の。現下の日本人は、いまだにそれに攪乱されているようにも思うのです。
70年代に高名だった日本のビートルズ研究家はすでに故人ですが、レノンが亡くなった時、「天罰だ」と発言して顰蹙をかったそうです。しかし今ならわかる。彼はすくなくとも、一般的なファン・レベルからは大きく逸脱したレベルでのレノンの人となりを調べ上げ、研究した。そしてその結果、レノンがどれだけ多くの人にイヤな思いをさせ迷惑をかけ、傷つけてきたかを思い知った、こんな人間はロクな死に方をしないはずだと確信したのではないでしょうかね。
レノンの因果は、当初、明李寧(ミン・リネイ 日本名 小野洋子)と報じられた女性との出会いによって緩慢な応報へと歩を進めていった。わずか40年と定められていた人生、20代半ばにして書いた「イン・マイ・ライフ」の歌詞も、さもありなんと後付けで納得する次第です。
と、まあそんなようなことをイマジンする、あれからのこの頃です。
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