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マイノリティという嗜好

小学生の頃から"マイノリティ"が好きだった。

みんながやりたがらないことをやりたがったり、とにかくそういう普通じゃない、マジョリティじゃないことをしてみんなの目を引くことが昔から好きだった。

例えば、道徳とか国語の授業のディベートの時間。
私は自分の意見とは関係なしに、人が少ないほうを選択をした。
選択したほうに人が多ければ、少ないほうに移動した。
こういうディベートのときは、あえて少ないほうの立場から物事を発言することがすごく好きだった。
ディベートは戦いだから当然勝敗はあるし、人数が多い方が勝ちになる。
それでも私はそれにはあんまり執着しなかったように思う。
私なりの、マイノリティ側の意見を聞いて最後に少しでもマジョリティからこちらに移動してくれる瞬間が一等に気持ちよかった。
屁理屈でも、マジョリティがこういう主張をしてくるだろうと予想した上でマイノリティの主張、反論を考えるのが楽しかった。

そして私は今、このマイノリティは私の"性質"なのか"嗜好"なのか、わからなくなっている。

大学に入って、セクシャルマイノリティについて多くのことを学び、またマイノリティの人と関わることもあった。
私自身も中学生以来男性を好きになったことがなく、最近は女性を気にしてしまうことが多い。
私も女性が好きなのかな〜とかぼんやり考えつつ、でも別に男性が無理ってわけでもないからバイかな〜とか思いつつ、自分のセクシュアリティについてはかなり曖昧だ。(そういうセクシュアリティもあっていいと思ってる)

ただ、ふと考えてしまった。
自分はセクシャルマイノリティである、と考えることは本当に自分の性質なのだろうか。
私は自分がセクシャルマイノリティである、というある種の特別感に酔ってるだけではないか。

まぁもしかしたらそういう思考こそがLGBTQの"Q"の部分かもしれないですが。

セクシュアリティに正解なんてないし、それこそ十人十色。その色も濃かったり淡かったり、明るかったり、暗かったり。無機物に恋愛感情を持ったり、複数の人を愛してしまったり。
ほんとになんでもありだし、それこそ嗜好なのかもしれないけれど。

いつか自分のセクシュアリティについてわかる日が来ればいいなぁ。

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