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スタサプ「[夏季]最難関国公立 現代文」柳生先生の解答・解説への疑問
一橋大2019年。
出典は、なだいなだ『人間、この非人間的なもの』。
スタサプ柳生先生の解答・解説について感想・疑問を述べる。
各予備校の答えはここにまとめられている↓
問1
漢字
問2
柳生先生の答え↓
人間は善だと限定せずに、人為は全て人間的だとするということ。
①「人間は善だと限定せず」とあるのはどういう意味だろうか。「何を」限定しているのか不明である。
②「人間は善」というのも意味が不明である。人間がやることが善とか悪とかいうのはわかるのだが。「人間の悪を非人間的と呼んで」という部分があるように、人間には善と悪の両面があるが、そのうち「人間の悪を非人間的と呼」ぶという話である。人間は善か悪かなんて話はしていない。
③柳生先生の実質的な答えは、各予備校の答えと同じである。だから、正しいのだろう。しかし、個人的には、それらの答えと違う考えをもっている。つまりこれは個人的な戯言である。読み飛ばしてもらって構わない。
本文には、「人間を知り尽くすこと以外に、自分を人間であることから解放するものはない」とある。つまり、自分を人間から解放するためには、人間を知り尽くすしか方法はないということである。しかし、人間を知り尽くすのは不可能である。したがって、自分を人間から解放することは不可能である。不可能な手段でしか、自分を人間から解放できないのだから。
一方、予備校も柳生先生の答えも、「自分を人間から解放する」を「人為をすべて人間的とする(みなす)」と解釈している。しかし筆者は「人為をすべて人間的とみなす」ことができるようになったのである。すなわち、筆者はそれができるのである(見方・考え方の問題だから筆者だけでなくだれでもできる)。つまり、自分を人間から解放することはできるということになってしまわないか。
一応、自分を人間から解放することは不可能だという解釈が正しいとする場合も考えておく。「人間を知り尽くす」の反対である、「人間を知り尽くすことができない間はどうなるか」を考えてみると、「人間的」は人間のなすことすべてから導かれるものであり、人間を知り尽くせていないのであれば、人間とはなにか、「人間的」とはなにかを問い続けることになる。「人間を知り尽くした場合」はその反対なので、その場合、人間は、人間とは何か、人間的とは何かを問い続けなくてもよくなる。つまり、「自分を人間から解放すること」とは、「人間とは何か、人間的とは何かを問い続けなくてもよくなること」ではないだろうか。
問3
問題文を少し引用する。
「人間は、人間的という言葉の主人である。人間は、そのものが未完です。・・・人間的という言葉の意味の境界も、閉じられていません。しかも、人間が完結した時、つまり滅亡した時、それを認識する人間も残っていないわけですから、《傍線部》」
構造的には、「AしかもB」なので、AとBを答えればよいのだろう。したがって、「人間は未完ゆえ人間的の語義も決まらず(A)、完結時は不存在(B)だから。」とでもなるのだろうか。字数制限がかなり厳しいですね。「人間は未完で人間的の語義は決まらず(A)、完結時は存在しない(B)から。」でも同じである。
◎解答について
柳生先生の答えも実質的には同じである。
人間は未完であり(A)、人間が完結しても滅びて認識できない(B)から。
① 個人的には、「人間は未完であり」で止めずに、「だから人間的という言葉の意味が定まらない」まで書いたほうがいいのではないかと思う。そうでないと、傍線部の「(人間とは何か、)人間的とは何かという問の答えが定まらない」に繋がりにくいと思われるからである。もっとも、どこまで細かく考えるかは人によるので、現実的な観点からすれば問題とは思わない。あくまで個人的にはという話である。
② また、「認識できない」とあるが、「何を」認識できないのかがわからない。字数が厳しいから、本文に沿って、その人間が「存在しない」で留めておけばよいのではないだろうか。(その時、人間は存在しないから、人間的とは何かという問いに答えられない、という傍線部につながる)。本文では、「それを認識する人間が『残っていない』」とある。だから、本文を素直に読めば、「人間が残っていない」→「存在しない」となろう。「認識する人間が残っていない」ということは、「人間によって認識はされない」ということだ、と連想したのだろうが、わざわざ「認識されない」の方を使う理由は何なのだろうか。これは単なる疑問である。
(ちなみに、「何を」は、「人間的という言葉の意味」なのだろう。つまり、人間が完結してようやく人間的という言葉の意味が定まるのに、その時にはもう人間はおらず、定まった「人間的という言葉の意味を」認識できる者は存在しない。「人間的という言葉の意味を」を書くと字数に収まらない。だから省略したのだろうが、解答からは「何を」の部分はわからない。)
以上、疑問点をあげたが、実質的な答えには賛成している。問題は、解説である。よくわからないのだが、ここで「対偶」を使うようなのだ。
◎解説について
先ほど見たとおり、「人間が完結した時、人間も残っていない」(B)とあった。これを対偶にするという。対偶にすると、「人間がいるなら、人間は完結していない」となる。そして、「人間は完結していない」の部分を探す。すると、「しかも」の前に「人間は完結していない」(A)がある。したがって、AとBを解答の根拠にするのだという。
曰く、傍線部は二文からなっており、二文の関係は対偶となっている。ここまではいい。
しかし、ここから、なぜか対偶を探すという話の流れになる。柳生先生の説明では、傍線部が対偶だから対偶関係にある文を2つ探すということなのだろうが、今回、たまたま傍線部の前に対偶関係の文が2つあっただけである。いつもあるとは限らない。
もし対偶の片方がなければ、1つの文を対偶に言い換えて書くのだろうか。
つまり、「AはBであり、BでないならAでないから」のように。同じことを2回いうことを求める問題があるのだろうか。
そもそも、言い換えれば対偶になることはめずらしくないのである。単なる言い換えを複雑に考えさせるべきでない。
柳生先生の解答は、「人間は未完であり(A)、人間が完結しても滅びて認識できない(B)から。」なのだが、「人間は未完であり」と「人間が完結しても滅びて認識できない」は、対偶になっているという。もちろん、対偶になっていない。
本当に対偶なら、意味上、AとBは同じということになるが、「人間は未完であり」と「人間が完結しても滅びて認識できない」が同じな訳がない。「未完」の話と「完結」の話なのだから別の意味に決まっている。
それに、本当に対偶なら、ABどちらかを書いても正解になる。同じ意味なのだから。しかし、AもBも書かなければならない。なぜかといえば、「しかも」があるからである。シンプルな話である。なにを複雑に説明しているのか意味不明である。それも正しいことを複雑に言っているのなら、説明が下手で済むが、これは間違ったことを複雑に言っているから、意味不明なのである。
問4
柳生先生の解答↓
人間は善だと限定できず善悪を超えて常に発展していくもので、そこに積極的価値を見出したいということ。 ※「超えて」は原文のママ。正しくは「越えて」だろう。
①「人間は善だと限定できず」については、問2参照。
②「人間は善悪を超えて常に発展していく」。
これは、「人間のやることは善悪を超えて常に発展していく」の意味だと仮定して話を進めるが、本文に照らせば、「人間的・非人間的という区別を超(越)えて」が正しい。善悪の話はあったが、それは、筆者の個人的な体験談、つまり具体例である。つまり、「人間がなす良いことは人間的だが、悪いことは非人間的だ」と、かつて筆者は考えていたということである(テレンチウスの言葉を知る前)。しかし、たとえば人間の為す機械的な行動をみて非人間的だと考える人もいるだろう。そして筆者はこのような考え方を否定してはいないのである。その証拠に、本文では、「人間的でないものは『悪をふくめて』なにもない」とあり、悪は人間的でないものの中に「含まれている」のであり、一例ということである。非人間的なものはたくさんあり、そのうちの1つが悪だと言っているだけである。したがって、「善悪を超えて」と限定するのはおかしい。
③「そこに積極的価値を見出したいということ」。
本文の理解といういちばん重要な部分であるが、本文では、「人間の為すことはすべて(良いことも・悪いことも、機械的なものも・機械的でないものもなどなど、すべて)人間的というべきである。したがって、人間のなすあらゆることを人間的と認め、その視点から人間とはなにかを常に問い続けるべきだ」ということが言われていた。
これをひとこと、「積極的な価値を見出したいということ」とするのはいかがなものか。「人間の為すことはすべて人間的と考える考え方に積極的価値を見出したい」つまり、「その考え方は良いものだと思う」、これが筆者の言いたいことなのか…。浅すぎないだろうか。