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開くのではなくて,気づいたら開かれていた,というのが大事なのかもしれない

昨日の記事は,過去イチのスピードで読まれた。
ついでに目に留まってくれたのか,その他の記事も,たくさん読んでもらえたみたいだ(当社比)。
昨日が日曜日というのは大きいのかもしれないけど,それをさっぴいても,やっぱり嬉しいです。

今日からまた新しい1週間。
仕事で書く硬い文章のしめきりが,いよいよ近くなってきた。
いや,だから実は先週の時点で,けっこう差し迫ったしめきりを抱えている状態で。
本当はこんなふうにnoteに力を入れている場合ではなかったのかもしれない。
でも,先週1週間は,それでもnoteを毎日更新することが必要だったんだろうな,と思う。
そして,今日も。


疲れている,やる気が出ない,自分の時間がない。
リフレッシュできなくて,ただ仕事と家庭の両輪を回し続けているだけのように感じられてくる。
余裕があるときは,それらの役割を果たすことにやりがいを感じ,幸せに思うかもしれない。
でも,余裕がないときは,そんな悠長なことは感じていられない。
というより,しんどさやイライラを抱えていることに気づくのが先にあって,それはたいてい余裕がなくなっていることを示しているんだろう,と後から意識するんだね。

そうして,余裕をなくしていることが大きな要因のひとつであると突き止め,だから僕は休む必要があると考える。
それでも,やらないという選択肢はないんだね。
忙しくなってきたことに気づいていても,一段落するまでは,とギアを入れ続ける。
いや,厳密には他の選択肢(=むりやり休む,頼み込んで仕事や家事を任せる)がないことはないけど,相当えらびにくいよねぇ。
だから,みんなそういうことをダマシダマシやり過ごしながら,なんとか休める日がくるのを待っているんだろう。

そう。
そういう話が聞きたいし,話したいんだな。
これまた,日常会話では話しづらいことだから。
共有したい思いを共有できる場がない。そんなタイミングもない。
そんな中で僕が最近みつけた方法が,noteに書くという方法だった。

日記のような,ぐちノートのような,考察のような,硬い文章のためのメモのような,これらをカッコつけて総称すれば自省録とでもいうような,そんなものを書く習慣が,僕にはある。
かれこれ8年くらいの習慣。
だけど,それはあくまで自分から自分に向けた言葉で,そこから新しいアイデアや気づきや癒やしがあったとしても,それは閉じたサイクルだったんだ。
当時の僕には,閉じていること,誰にも見られないということは,とても安全で守りが効いているということでもあり,それが決定的に重要だったんだと思う。


僕はnoteを更新するようになった。
そうすると,他の人の日常や考えや気持ちをもっと知りたくなった。
そうしていろんな人のnoteをみていると,たとえば大学生の人とか,20代前半の人,ときには10代の人でも,noteを更新し続けている人がいることに気づく。
僕もそうしてればよかったなぁ~。
率直にそう思う。

でも,一方ではそうならなかった,そうできなかった必然性というか,必要性があったんだろうな,とも思う。
これは怖いことだから。
誰にも見られないかも,評価されないかも,面白くないと思われちゃうかも,知り合いに見られたら恥ずかしい,エトセトラ,エトセトラ。

noteを再起動させて1週間。
その怖さはいまもあるし,今後もなくなるようなものではないんだろう。
でもそれ以上に,嬉しさや楽しさの手応えがある。
思ったより見てもらえるんだな,スキをくれる人もいるんだな,記事によって反応が変わるんだな,エトセトラ,エトセトラ。
誰かに読んでもらえる可能性を前提に言葉を紡ぐことは,こんなにも緊張感があって,なのにそこには,不思議なことにケアの感覚がある。
言葉になっていなかったことが言葉になる,その瞬間を目の当たりにするのは,物理的には自分だけのはずなのに,それが開かれてつながる感覚が,確かにある。


僕は,いま,noteを更新し始めた。
これにもきっと意味がある。
それはまだハッキリした形を持っていない。
でも,こういうときの実感はすごく大事だと思っている。
面白くないけど,必要そうなこと。これをやることも重要だけど。
必要性がわからなくても,面白そうなこと。この直感を信じよう。


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