欲望の奥底で眠る残酷なやさしさ
本業のしめきりが近く,ついに本格的に取り組み始めた。
エライぞ,自分。
前にも書いたけれど,そんな中でもnoteに書くことを続けていたのには,それなりの意味があるはず。
とはいえ,やらなくちゃいけないことを放置するのは,それはそれでメンタルが削られるのよね。
「どくじょうたい」のように,少しずつ,しかし確実に。
そういえば,僕のnoteの最初の記事が,まさにそういう内容だった。
Shouldを無視してはいけない。
「べき思考」は,メンタルヘルス界隈では注意すべき考え方としてやり玉に挙げられるけれど,かといって,やらなきゃと思いながら「べき」を見過ごし続けていると,それはそれでメンタルにくる。
だから,逃げずに戦おう。
そんなことを,自分へのいましめとして書いた。
それっきり,4年間書かないままでいたのだけど,最近になってよく記事を書くようになった。
僕は4年前の宣言以降,「べき」に立ち向かってきて,そこに幸運が重なって,なんとか目指していた場所にたどり着いた。
はずだった。
のに。
4年越しに,同じ状態になっとるがな!
いやぁ,ほんと,自分の弱点って変わらないね。
でも,多かれ少なかれ,みんなそういう側面を持ち合わせている,はず。
ビジネス書や自己啓発のたぐいは,たいてい,「動け!」「勇気を出せ!」と,まぁそんな結論になっていることが多いよね。
それは裏返せば,みんな動けないし,勇気が出ないことに困っていて,それに半ば,うすうす,気づいてはいるんだけど,それでも自分ひとりでは一歩を踏み出せない。
だから,そういう本や記事や動画にはニーズがあるんだよね。
自分も,そうやって誰かから後押ししてもらうことでやっと動ける,そのひとりだ。
ただ,僕の場合は幸運にも,発破をかけてくれる尊敬する人が身近にいたことも,とっても大きいんだろうな。
振り返って思い出す。
その先輩はとても破天荒だった。
そして,自分の目的を果たすためにしなければならないことを粛々と積み重ねられる人だった。
営業がうまくて,相手の気持ちをつかむのが上手で,しがらみや伝統に縛られず,でも大局的に大事なことをきちんとわかっているから,同僚や近い先輩からは疎まれることがあっても,上の人からは評価される。
要するに,とてつもなく仕事ができる人だった。
僕は,つまらないしがらみや伝統に文句を言いながら,しかしそこに反旗を翻すほど肝が座っているわけでもない,小市民だった。
本当は達成したいことがあって,自分の価値を証明したがっているのに,自分の出した成果が評価されることを怖がって,もう一歩踏み込めないでいた。
そんなとき,あくまでも自分を主体にして物事をとらえ,周りにいる人がいつの間にか,すべて味方か敵かどちらかになってしまうような,強烈なメッセージを発して行動していくその姿に,僕は否応なく突き動かされてしまったのだ。
僕は,その光の強さに焦がれて,自分との約束を果たしたくなった。
それが,僕が修行期間に入るきっかけだった。
結果的にタイムリミットには間に合わず,最後はその先輩から引導を渡される形で,ひとまず僕は遠回りをする道を選んだ。
(ちなみに,このときのことを書いたのが,4年前に書いた最初の記事)
それでも,その後なんとかここまで来られたのは,その力強い光が,そしてそれに反応して燃やされた僕の野心があったからだと思う。
なんて,感傷にひたったけれども。
今日の冒頭は何から始まったかといえば,僕の怠惰さの話だ。
そして,その怠惰さ,一歩踏み込めない臆病さこそ,その先輩がいつも発破をかけてくれていた,僕の弱みだった。
このnoteをもし仮に先輩が見たら,なんというだろうな。
でも,あの人は頭ごなしに叱ったり否定したりする人ではなかった。
もっと,人の奥底の欲望をみつめて,取り出して,ほら,君はこれが欲しかったはずじゃなかったかい?
いま辞めてしまいたい,引っ込んでしまいたい,その気持ちはわかるぜ。
でも,そのままじゃあ,これは手に入らないってのは,自分が一番わかってんだろ?
そんなふうに,ある意味いちばん寄り添ってくれて,ある意味いちばん残酷な現実を見せる,そんな離れ業をやってのける人だったな。
よし,またがんばってみようか。
ほかでもない,自分のために。
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