「システム」の前に敗れる"人の心"と"愛"ーー『Sorry We Missed You(邦題:家族を想うとき)』について
※この雑文は、『家族を想うとき』(2019年12月13日日本公開、監督:ケン・ローチ)および、同監督作の『ケス』『SWEET SIXTEEN』『わたしは、ダニエル・ブレイク』、『存在のない子供たち』(監督:ナディーン・ラバキー)のネタバレを一部含みます。
一貫したテーマを掲げ続けるケン・ローチという映画監督
ケン・ローチの『家族を想うとき』を鑑賞した。普段は、映画レビュー・アプリにちょろっと備忘録を書き込むだけなのだが、妙に胸に響いてしまい、せっかくなのでnoteに書いてみる。
ケン・ローチは、マイク・リーと並ぶ(というか少なくとも日本の知名度などでは上?)、「社会派」として知られるイギリスの映画監督である。「リアリズム」と「左派的なテーマ性(正確には、反資本主義的な感性)」で知られる。マイク・リーとの違いは、作品に「ユーモア」を必ず入れ込んでくるところ、社会派「テーマ」を押し出すより「庶民視点」を重視する点だろうか(言わずもがなですが、念のためにマイク・リーも素晴らしい監督です)。
さてさて、御年83歳のケン・ローチによる『Sorry We Missed You(邦題:家族を想うとき)』(事情はわからないでもないけど、もう少し原題の意図に沿った邦題をつけられないものなのか……)。前作の『わたしは、ダニエル・ブレイク』で引退宣言をしたことを撤回し、製作したのが本作だ。
ケン・ローチという監督の特徴を一言で言えば、「社会的に弱い立場の庶民の生活を、ユーモアは交えつつ、ただひたすらリアルに描く」という一点である。そこにドラマチックさ、カタルシス、ハッピーエンディングはない。
たとえば、映画監督としてのデビュー二作目『ケス』(1967年)。さびれた炭鉱町に住む少年を主人公にした本作では、貧困家庭に育つその少年が、学校で同級生からいじめられ、パターナリスティックで頭からっぽな教師たちからいじめられ、家庭では不良気取りの兄からいじめられ、という生活を、あくまでユーモラス(アホ丸出しの体育教師が参加するサッカーの授業シーンは爆笑もの)に描き出す。
少年の救いは、偶然飼い始めた鷹=ケスの存在。ケスが高く、美しく飛ぶことに、少年は情熱を注ぐ。しかし、そのケスが兄によって殺された事実が発覚したところで、唐突に映画は終わる。
あくまでリアリティ劇であるので、少年が「世を儚んで自殺する」というようなドラマチックな(それこそ安直な「社会派」的な)展開は一切なく、これからもこの少年の生活は、この狭く閉鎖的な地獄の町で続くのだろうと予感させて終わる。
https://www.youtube.com/watch?v=HRYvUpsrqmg 〈「Kes」Trailar〉
あるいは、『SWEET SIXTEEN』(2002年)。訳すれば、「花の16歳」。若さを尊ぶアメリカの慣用句だ。もちろん、シニカルでジョークの国であるイギリスの監督、ケン・ローチが、皮肉を織り交ぜていないわけはない。
同じイギリスのバンド、「The Who」のこんな曲を思い起こすと、わかりやすいかもしれない。
Don’t cry Don’t raise your eye It’s only teenage wasteland
〈(絶望に)泣くなよ (前向きに)見上げるなよ それはたかが10代の荒野(不毛)じゃないか〉 ※()内意訳
(「Baba O'Riley」The Who〈作詞:Pete Townshend〉)
https://www.youtube.com/watch?v=0YXkX9sZgL0 〈「Baba O'Riley」Live〉
最悪の父を持ち、最愛の母が刑務所に収監されている、15歳の少年が主人公だ。彼は、子どものいる姉と、じきに出所してくる母と、家を建てて住むことで家庭を再建しようと、麻薬を売りさばいて金を稼ぐ。
もちろんうまくいかず、追い詰められる。ラスト・シーンは、私が敬愛する監督の一人、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』のオマージュであろう海岸シーンで終わる。そこで電話する少年の最後のセリフは、「もうじき(携帯の、そして人生の)電池が切れそうなんだ……」。少年はじきに「花の16歳」を迎える。
https://www.youtube.com/watch?v=WWEpdJ8zcXI 〈「SWEET SIXTEEN」Trailar〉
「ケン・ローチ復帰作を観た」という寂しさ
このように、ケン・ローチの映画は、決して明るくない。映画監督としての演出力の凄みなどとは関係なく、二度観たいような愉快な映画を撮ることは一部を除いてほぼなかったと言ってよい。私自身、上述した作品並びに作品群も、すべて一度しか観ていない。が、心に残る作品ではあった。
前作であり、パルム・ドールを受賞した『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、心臓病を患い、失職したおじいさんと、貧困に喘ぐシングルマザーの交流を描いた作品だ。こちらも救いはほとんどなく、映画は終わる。血が通わない、社会システムの歯車でしかない職業案内所の壁に、スプレーで「I, Daniel Blake」と書くのが精いっぱいだ。それでも心に残る作品ではあった。
しかし、いずれも「心に残った」ものの、真に迫っては来てなかったのかもしれない。異国の、それも階級制が色濃く残るイギリス社会における貧困、少年が受けるつらすぎるイジメ、麻薬売人になるほどの過酷な家庭環境、"時代"に取り残された失業老人、シングルマザーの残酷な境遇……。どれも私が、「その身になって」わかる話ではなかったのかもしれない。
あるいは今年観た映画で、『存在のない子どもたち』というレバノン映画があった。これは、極貧のスラム街に住みながら、どんどん子どもを産む(避妊の考えも薄く、子どもの人権も考慮しない)両親の下、超女性差別的な社会の中で、可愛がっていた妹がロリコンのチンピラのところへ嫁がされ、反発して家出するも、犯罪者となって収監される12歳の少年の物語だ。両親を「自分を産んだ罪」で裁判を起こす少年の話だ。
あまりにも悲しい話で、心が痛んで印象に残ったし、非常に力のある作品だったが、「身につまされる」ことはなかった。「世界でこんなひどいことがあるのか」と強烈に思っても、どうしても対岸の火事になってしまう。
https://www.youtube.com/watch?v=6pA1Q1LbIoE 〈『存在のない子供たち』予告編〉
それが、ケン・ローチが引退宣言を撤回して製作した『Sorry, We Missed You』にいたって、真に迫ってきてしまった。「その身になって」わかる話だった。これは、純粋な映画作品としての出来が、ケン・ローチの今までより良かったというようなことではない。
日本社会か、私の状況か、作品のリアリティに近づいてしまったのだ。イギリスの低所得者層の話にもかかわらず、グローバルに社会が画一化し、貧富の差が世界的に明確になった今、自分に引きつけて感じることが「できて」しまった……。
何より、50年以上も同じテーマで描き続け、一度は引退を決意した80歳を超えた映画監督が、また作品を作ったということは、決して喜ばしいことではない。要するに、ケン・ローチが「作らなければならない」と思うほどに、貧富に関する問題は、何も解決せず、何も改善せず、おまけに私が「身につまされた」ということは、おそらく世界中で広がっている、ということではないか。
なんと悲しいことだろう。巨匠、ケン・ローチの新作がまた一本観られた、と喜ぶ気持ちにはとてもなれない。ただただ、寂しい話である。
「人であること」を剥奪する、"敵"のいない「システム」の暴力
https://longride.jp/kazoku/intro.html〈Sorry We Missed You〉
タイトルである『Sorry We Missed You』とは、作中でも印象的に出てくるように、宅配の「不在連絡票」に記載されている文言だ。「あなた(父親)がいなくて、私たち(妻、息子、娘)は寂しかった」とのダブル・ミーニングになっている。
あらすじを、公式ページから引用すると、
イギリス、ニューカッスルに住むある家族。ターナー家の父リッキーはマイホーム購入の夢をかなえるために、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立を決意。「勝つのも負けるのもすべて自分次第。できるか?」と本部のマロニーにあおられて「ああ、長い間、こんなチャンスを待っていた」と答えるが、どこか不安を隠し切れない。
母のアビーはパートタイムの介護福祉士として、時間外まで1日中働いている。リッキーがフランチャイズの配送事業を始めるには、アビーの車を売って資本にする以外に資金はなかった。遠く離れたお年寄りの家へも通うアビーには車が必要だったが1日14時間週6日、2年も働けば夫婦の夢のマイホームが買えるというリッキーの言葉に折れるのだった。
介護先へバスで通うことになったアビーは、長い移動時間のせいでますます家にいる時間がなくなっていく。16歳の息子セブと12歳の娘のライザ・ジェーンとのコミュニケーションも、留守番電話のメッセージで一方的に語りかけるばかり。家族を幸せにするはずの仕事が家族との時間を奪っていき、子供たちは寂しい想いを募らせてゆく。そんな中、リッキーがある事件に巻き込まれてしまう──。
ここで描かれるのは、「社会システム」の暴力である。この作品には、嫌な人は出てくるが、悪人は一人も出てこない。ただ、みなが思い悩み、苦労を胸に秘める中で、必死になって「幸福な生活」を、「将来への希望」を、成り立たせようと努力する。
そして、その想いは打ち砕かれ、崩壊する。何に負けたのか、何に屈したのか。それは、「生活」である「現実」である、正しくは巨大で実態のつかめない「社会システム」である。ラスト、重傷を負った体を動かし、最愛の家族の静止を振り切り、「仕事」へと向かう主人公である父、リッキーの姿に、観客はやるせなさしか覚えないだろう。
彼は、将来への希望を込めてローンを組んだバンに乗り込み、我が身のつらさを我慢し、理不尽に懲罰金を課してくる会社に従い、「家族のために」仕事をするべく、アクセルを踏むのだ。追い詰められた彼を動かすのは、「人の心」ではなく、「家族への愛」でもなく、「社会システム」である。生きるためには組み込まれるしかない、「社会システム」である。
他人事でないと思うのは、私が歳を取ったせいでもあるが、主人公の「宅配業者」という境遇にもある。今日、アマゾンで注文をすれば、翌日には商品が届くだろう。外食チェーンで食事をすれば、すぐに提供されるだろう。そこに「人の顔」はない。あるのは、ただ整備された「システム」である。
人は、システムを「当たり前」と感じ、その裏側に「人」がいることなど、想像もしない。いや、想像しない人が悪いのではなく、「できない」のだ。何か事情は知らないが、そうなっているのだという「当たり前」だけを事実として受け止めるばかりだ。
ケン・ローチという「まなざしの恵み」
ここに私が「身につまされる」恐怖があった。私は消費者としても、労働者としても、「システム」に組み込まれていることは承知している。いちいち、その先にいる人を想像するほどの余裕もない。
では、その「システム」とは何かと問うても、誰も答えられないし、元凶たる犯人もいないだろう。「人の心」を過少にし、「社会システム」を肥大させていく、そんな止められない流れがあるとするなら、私は怖い……。
絶望的に見えるこの映画に、一縷でも希望はないのだろうか。一義的には、出勤を止めようとした「家族」の存在なのだろうが、私はケン・ローチがこの映画を撮ったことに求めたい。
ケン・ローチがいまだに引退せず、映画を撮ったことは悲しいと先に述べたが、「弱者へのまなざし」を持った映画監督が、こうしたリアリティを持った視点で作品を届け、伝えていることは、やはり「恵み」だと思う。
ほとんどが、ハッピー・エンドで終わらないケン・ローチにして、そのものずばりの「ハッピー・エンド(Happy Ending)」というタイトルの短編作品がある。これは、カンヌ国際映画祭の60周年記念として、様々な監督のオムニバスとして作られた『それぞれのシネマ』の一遍である。
作品はごく短い。あらすじは、「息子を映画館に連れ出した父親が、息子が観たい映画を観せてやろうと、何が観たいか尋ねる。はっきりせずになかなか決まらないなか、息子は不意にサッカーがやりたいと言い出す。それを受けた父親は了承し、息子は上映作品のパンフを丸めてキックしながら、劇場の外へ駆け出す」という内容だ。ほぼ、これだけだ。
映画がいかに素晴らしいかを称揚している作品が多い『それぞれのシネマ』の中で、本作はラストに配置され、異色を放っている。
ケン・ローチにとって、「映画は素晴らしい」ということが、伝えたいことではなかったのだろう(皮肉も多少は込めているかもしれない)。あくまで、溌溂とした少年、その少年を愛する父の姿こそ素晴らしいということを、「ハッピー・エンド」と題して描きたかったのだと思う。
そうしたケン・ローチの「まなざし」は、たいへんな「恵み」である。「これだけ理不尽な目にあっている人が(社会に)いる」「こんな苦労が(社会に)ある」と、フィクションとして伝えることは、すなわち「こんなつらさがわかる人が(社会に)いる」「こんな苦労を理解してくれる人が(社会に)いる」と、ノンフィクションとなって伝わることとイコールだ。
今回、新作を観て、改めてそのことを思った。願わくば、ケン・ローチの作品が不要な社会になっていけたら……と思う。
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