内藤礼「生まれておいで 生きておいで」を観にいった

東京国立博物館で開催中の、内藤礼「生まれておいで 生きておいで」という展示を観に行ってきた。
会場は3箇所に分かれていたため、それぞれをたどりつつ、感想をまとめたいと思う。

会場① @平成館

「会場は①②③の順に回ってください」という指示があったので、きっと何か伏線が?!というモチベで望む。ちなみに、事前情報は全く持たずに行った。(行ってしまった……)

会場に入った途端、面食らった。
何を見ればいいの?とハテナでいっぱい。正直、ショb…
私の自我は、「自分、芸術分かってますの男」「分かんないね~!と明るく思考停止できる女」に分裂し、どれが本心なのかも決めきれぬまま半笑いで通過。
第2会場の本館へと向かった。

しかし、ここで問題が!!
本館は廊下という廊下が無く、通路が展示室になっている状態なので、第2会場に向かうまでに常設展を通っていかなければならないのである!!
そのため、
内藤礼①→仏像仏像仏像刀刀陶磁器陶磁器→内藤礼②→浮世絵地獄絵図木彫り→内藤礼③
みたいになってしまい、合間合間にノイズがめちゃ入っちゃってない?と心配になった。というか、国宝を廊下(兼展示室)で見るっていうあり得ない贅沢をしすぎて腹一杯。
芸術品がノイズ呼ばわりされかねない異常空間で笑ってしまった。

会場② @本館

私の中の分かってる風の男は、「ふむ、左右対称なんだな。お、これも作品なんだな、俺は見つけたぞ。」と、得意ぶり、素直女は「これ息吹きかけていいんだ~吹きかけた~い!ここ、座っていいんだ~座りた~い!」とはしゃぎだした。

結論、座ってよかった。
会場の真ん中で「座」に座ってみると、特別な感覚が得られたのである。
私という個が薄れ、命の営みという悠久の時の中に還元されていくような感覚だ。
自分の内側に向かっていくような悩みは、全部ばかばかしい。
私たちは、群の生き物だ、土から生まれた魂だ、と思った。
個人を超えた、何か大きな存在、もしくは皆が繋がっている深い場所にアクセスしていくような感覚になった。

これ以上深みに行ってしまっては帰れなくなるような気がして恐ろしくなり、早々に立ち上がった。

(あと、ここの会場は広くて明るくて吹き抜けなので、小声なら喋ってもいいよねみたいな空気感があって楽しかったです。ぴーす✌)

会場③ @本館ラウンジ

まじで意味不明。もうたすけて


まとめ

帰り道、上野公園のだだっ広い石畳を歩いていると、ふと
「この光景は、いつかの化石の再現映像だ」と思った。
噴水の周りに腰掛けて語りあうアベック、犬の散歩、家族連れ、
東京の真ん中で、広い空と広い道が突然ぽっかり空いているのは不自然な感じがする。
みんな一緒に、ここで化石になっちゃうような気がした。
私たちが生きた時代は、発掘されて、想像されて、いつかこの光景のようにホログラムで再現されるんだろうか。
それは、今は無い命、いつかある命からの眼差しが私の中にあることを自覚させた。



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