キッチリしすぎた時代に、ゆるやかな寛容を
私が好きな作家は、ほとんどが女性です。そのせいか、女性作家の小説を読むことが多いのですが、数少ない好きな男性作家のひとりが「燃え殻」さんです。
「燃え殻さんの作品がどれくらい好きか」というと、このnoteの前身であるブログを始めたとき、「燃え殻さんのような文章を書けるようになりたい」と思ってスタートさせたくらいです。実際には、燃え殻さんのような文章なんて書けるわけもなく(当然ですが)、結局、自分が書きたいと思うものを、自分が書きやすい感じで文章にしているだけなのですが・・・。
以前、燃え殻さんのエッセイを読んでいて、心に引っ掛かったことがあります。
もうひとつ似たような話が・・・
私は性格的な理由や母の介護もあり、かなり希薄な人間関係のなかで生活しているのですが、その中でも同じような気持ちになることが少なくありません。特に若い方に多いように思うのですが、身だしなみもしっかりしていて、礼儀正しく、言葉遣いも丁寧。ただ、あまりにキッチリしすぎていて、違和感を覚えてしまうのです。
「ねぇ、それって疲れない?苦しくない?」
・・・と、つい聞いてしまいそうになる人もいます。
もちろん、そういう人とはプライベートで会っているわけではありません。あくまで私は「お客さん」という立場なので、相手にとっては「仕事なんだから当然」と思っているのは「言わずもがな」ですが、「それにしても・・・」と思ってしまいます。
私が住んでいる『老人と空き家が多い田舎』ですらこんな感じなのですから、日本中が多かれ少なかれ「キッチリを求められる環境」なんだろうなぁと思います。
これは自戒の念も込めてのお話ですが、あんまり自分に対して厳しすぎると、他人にも厳しくなりすぎるのではないかと思います。ついつい「自分が我慢しているのに、なんであなたはできないの?」みたいな気持ちになりがちではないでしょうか。
そんな風潮に息苦しさを感じた人達が、ストレスのはけ口にしているのが「ネットの世界」であり、昨今問題になっている「SNSでの誹謗中傷」に繋がっているのではないかと考えたりしています。
どうしても許せないことは別として、多少のことは許せるほうが、寛容な社会になるように思うのは、良くない考え方なのかなぁ。
先日、新語・流行語大賞が発表され、今年は「ふてほど」が大賞に選ばれました。最初、私は全く意味がわからなかったのですが、どうやら「不適切にもほどがある」の略だそうですね。
今の世の中は『タイパ』、『コスパ』、そして『ハラスメント』に『コンプライアンス』『常識』など・・・
「なんだか面倒くさい世の中になったなぁ」と思うこと自体が不適切なのかもしれません。