キッチリしすぎた時代に、ゆるやかな寛容を

私が好きな作家は、ほとんどが女性です。そのせいか、女性作家の小説を読むことが多いのですが、数少ない好きな男性作家のひとりが「燃え殻」さんです。

「燃え殻さんの作品がどれくらい好きか」というと、このnoteの前身であるブログを始めたとき、「燃え殻さんのような文章を書けるようになりたい」と思ってスタートさせたくらいです。実際には、燃え殻さんのような文章なんて書けるわけもなく(当然ですが)、結局、自分が書きたいと思うものを、自分が書きやすい感じで文章にしているだけなのですが・・・。

以前、燃え殻さんのエッセイを読んでいて、心に引っ掛かったことがあります。

「立派」に囲まれていると、たまに雑味まみれの人間に会いたくなる。塵一つない部屋は綺麗だが、その部屋に閉じ込められると、息が詰まるはずだ。ちょっと散らかった部屋のほうが、ほんのり安心できる。

燃え殻 / 愛と忘却の日々 より

もうひとつ似たような話が・・・

とにかく世の中は、キッチリピッチリ、列を乱さず、遅れず、出過ぎずを美徳として生きている人が多すぎる。
(中略)
この、あまりに「遊び」のない社会は、ギスギスし過ぎて酸素が薄い金魚鉢の中で、誰もが水面に上がってパクパク必死に呼吸しているかのようだ。

燃え殻 / 明けないで夜 より

私は性格的な理由や母の介護もあり、かなり希薄な人間関係のなかで生活しているのですが、その中でも同じような気持ちになることが少なくありません。特に若い方に多いように思うのですが、身だしなみもしっかりしていて、礼儀正しく、言葉遣いも丁寧。ただ、あまりにキッチリしすぎていて、違和感を覚えてしまうのです。

「ねぇ、それって疲れない?苦しくない?」

・・・と、つい聞いてしまいそうになる人もいます。

もちろん、そういう人とはプライベートで会っているわけではありません。あくまで私は「お客さん」という立場なので、相手にとっては「仕事なんだから当然」と思っているのは「言わずもがな」ですが、「それにしても・・・」と思ってしまいます。

私が住んでいる『老人と空き家が多い田舎』ですらこんな感じなのですから、日本中が多かれ少なかれ「キッチリを求められる環境」なんだろうなぁと思います。

これは自戒の念も込めてのお話ですが、あんまり自分に対して厳しすぎると、他人にも厳しくなりすぎるのではないかと思います。ついつい「自分が我慢しているのに、なんであなたはできないの?」みたいな気持ちになりがちではないでしょうか。

そんな風潮に息苦しさを感じた人達が、ストレスのはけ口にしているのが「ネットの世界」であり、昨今問題になっている「SNSでの誹謗中傷」に繋がっているのではないかと考えたりしています。

どうしても許せないことは別として、多少のことは許せるほうが、寛容な社会になるように思うのは、良くない考え方なのかなぁ。

先日、新語・流行語大賞が発表され、今年は「ふてほど」が大賞に選ばれました。最初、私は全く意味がわからなかったのですが、どうやら「不適切にもほどがある」の略だそうですね。

今の世の中は『タイパ』、『コスパ』、そして『ハラスメント』に『コンプライアンス』『常識』など・・・

「なんだか面倒くさい世の中になったなぁ」と思うこと自体が不適切なのかもしれません。

いいなと思ったら応援しよう!