フェミニズムと葛藤
フェミニズムに出会って、人生が変わったと思っている。一度知ると、世界が違って見えて、もう昔の自分にはもどれない、という感覚に共感してもらえることもよくある。
私は20代半ばでフェミニズムと出会い、本当に良かったと思っている。
その反面、フェミニズムと出会ったことによって、今まで好きだったものが、単純に「好き」と言いづらくなってしまって困った経験もした。
今日は、フェミニズムと出会ったことによる、個人的な葛藤を書いてみたいと思う。
私は中学時代、熱狂的な宝塚ファンだった。ちょうど、真矢みきさんや天海祐希さんがトップで活躍していた時期の宝塚にどっぷりはまり、グッズを買ったり出待ちをしたりするほど通っていた。高校、大学を出て、社会人になってからはそれほど熱狂的ではなかったが、時々昔の映像を見たり、舞台を見に行ったりするとやはり「かっこいい」という感情がわいてきて、「好きなもの」の一つだと感じていた。
その感情は今でも変わらない。
フェミニズムと出会って困惑したことは、「宝塚のジェンダー表象」が見えてしまったことだ。
基本的に宝塚の舞台は男役がメインなので、女役はサブで男性を支える、というのが伝統的にも舞台表象的にもメインストリームである。そして、男役は「男らしさ」を強調してかっこよさを演出するのだ。つまり、舞台上で繰り広げられるのは「強引な男性」「ちょっと暴力的な男性」「ジゴロ的な男性」が「かっこいい」という演出であり、女性は添え物であったり守られる対象として描かれる。
舞台上の演出だけではない。宝塚歌劇団全体において、演者はすべて女性だが、劇団の運営や演出、脚本などはほとんど男性が作っており、「男性がコントロールする女性だけの劇団」なのだ。もともとの宝塚音楽学校のなりたちが、「良妻賢母を育てる」というコンセプトを考えると納得できる。
フェミニズムを知った自分が、うがった見方で見ると、「男性が思う“清く正しく美しい”女性を育成しながら、伝統的な男らしさを再生産し続け、女性の観客に消費を促す劇団」という見方もできる。
しかし、問題は、そういう一面が見えてしまっても、「好き」「かっこいい」という感情は消えないことだ。
計算しつくされた「男らしさ」の演出を見れば、かっこいいと思ってしまうし、素敵だと感じる感情に初めは自分の中で矛盾や葛藤を感じた。
宝塚だけではない、アイドルやドラマ、ミュージカルの舞台においても、伝統的なジェンダー観が再生産し続けられている例はそこらじゅうに存在している。フェミニストとしてはそれらのエンタメにすべて「No」というべきなのだろうか?
私が導き出した現時点での答えは、「好きだと思う感情に蓋をする必要はない」というものだ。どんな社会でも、なにに「かっこいい」「かわいい」「楽しい」と思うかは育ってくる中でバイアスとして植え付けられるものだ。私の中にも、たくさんのバイアスがあって、「気づいている」部分とまだ「気づいていない」部分があるだろう。しかし、そのバイアスは何十年も自分の中で気づかずに培われてきたもので、気づいたからと言って急になくなるわけではない。その矛盾と付き合っていくことも認めてあげなければ、自分が生きにくくなってしまう。
なので、私は「宝塚をみて素敵だな」と思ったり、「ジャニーズを見てかっこいい」と思ったりしたときには、自分の感情を否定する必要はない、と思っている。
「私はフェミニストです」と名乗ると、なぜか「完璧なフェミニスト像」を押し付けられることがある。フェミニストなのにそんなこと言っていいの??とか、フェミニストなのにそういうの好きなの??とか。私が思うフェミニストは「違いを受け入れて、だれもが生きやすい社会を目指したい」という思いを持っていることである。「フェミニストである役割」を押し付けられるのは、違和感を感じるし、自分なりのフェミニズムを信じていきたいと思っている。
ロクサーヌ・ゲイの「Bad Feminist」という著書も、フェミニズムとは何かを考えるうえで非常におもしろい。Ted Talkにも出ているので良ければ見てほしいが、「毎日車で女性軽視の歌詞のラップを聞いている自分を肯定して自分をBad Feministと呼んでいる」という。フェミニストの定義はとても難しいと思うし、個人個人の思うフェミニズムがあっていいと思う。「フェミニストはこうでなければ」という「役割」にとらえられることによって、興味を持てるはずの人たちの連帯を手放してしまうことはとてももったいない。いろいろな人がいろいろな立場で語り合える「フェミニズム」を考えていきたい。
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