#4「ヒミツの」
「―――それでは、よろしくお願いいたします」
言葉と共に丁寧に頭を下げる動きに合わせて、つやっつやの黒髪が肩から零れ落ちる。
すらりと伸びた背筋、均整の取れたプロポーション、質のいいブラックスーツ。
颯爽と踵を返す大輪の華としか言いようのないその後ろ姿を見送りながら、私と先輩はふかぁく溜め息をついた。
「やっぱり秘書課はちがうわねぇ」
「社長秘書さんとお話しするの、いつも緊張しますね~」
弊社に入社し受付嬢として勤務して早三年。
私も「弊社の顔」としての役割を勤めていると自負していても「高嶺の花」と言われ、全社員の憧れの的である秘書さんたちには到底及ばない。
今日だって事前に情報共有されているにもかかわらず自ら出向き、社長のお客様の好みに合わせたエントランスのアレンジメントのお花であったり、アートボードの変更も丁寧に指示されていた。
ただの業務にとどまらず、本当に「お客様」をおもてなしするような行き届いた心配りには感心するばかりだった。
「よーし、私もがんばろっかなぁ」
ロビーから上階の回廊に設置されているデジタルワールドクロックを見上げて気合一声、私は日課の「お散歩」に出発した。
「お散歩」と名付けたのは私の先輩で、エントランスロビーを嗅ぎまわるように歩き回る、まさしく「犬のお散歩」のような私の姿を見てそんな命名がされた。
(あ~やっぱり~。昨日の雨のせいで濡れた傘をソファに立てかける人が居るせいでソファの側生地が雨染みになっちゃってる~。あとで「総務に清掃依頼」しなきゃ)
対応すべきところを見つけるたびにメモしたり、アレンジメントのお花の花粉が台座にこぼれているのを持って歩いている「お散歩キット(使い捨て布巾・ビニル袋・ミニトング)」を使って掃除したりとかする。
ロビーをあらかた回り終えると、私は吹き抜けのロビーの一つ上階に上がった。
そこはぐるりと取り囲むような回廊になっていて、ロビーを見下ろすようにソファが点在している。
その回廊の中ほどにはデジタルワールドクロックが設置されていて、背面には小さな制御室がある。
私はそっとその小部屋のドアを開け、中を覗き込んだ。
(やっぱり居た―――)
部屋の中には小さな折り畳み椅子が置かれていて、そこにはおじさん―――と言っていいほどの年頃の、重役の偉い方みたいな高級感はないけど質のいい背広姿の、人のよさそうな笑顔の方が腰かけていた。
(社員用IDカードを提げてるから社内の方なんだけど……)
いつもこのくらいの昼下がりの時間、コンビニのコーヒーカップを片手にここに腰かけて、人知れず飽きることなくロビーを行き交う人たちを眺めている。
『課長クラスでそんな人……居たかしらね?』
先輩に聞いても思い当たる節がないらしいけど、悪い人ではなさそうだ。
(相変わらず、害のないおじさんだなぁ)
私が勝手に「無害さん」と名付けているおじさんをそっと見て居ると、不意に振り返った無害さんと目が合った。
(うっ、気まずい)
「あの……よろしかったら、カップお捨てしましょうか?」
うっかり目が合ってしまって今更目をそらすこともできない。
私は、恐る恐る無害さんに声をかけた。
すると無害さんは一瞬キョトンとした顔をし、カップを軽く振って。
「まだ残っているようだから大丈夫。どうもありがとう」
笑顔で受け応えた上で。
「君はずいぶん掃除好きのようだけど、趣味なの?」
「へぇ? そんなっ、違いますよぅ」
真顔で言ってくる無害さんにうっかり素でかえした。
私が「掃除好き」なんてお母さんが聞いたらひっくり返っちゃうだろう。だって、実家では「片づけなさい」と日々怒られ、自分のワンルームの部屋は荒れ放題だ。
それになによりも私の「お散歩」が無害さんに知られていたことが恥ずかしくて、ついもじもじしつつ。
「入社した時、先輩に『エントランスは会社の顔だ』って教わったんです」
新卒入社の私に指導担当の先輩はビシバシしごいてくれた。そのしごきのおかげで仕事に対する私の意識はずいぶん変わったと思う。
「『顔が汚い相手と真面目にビジネスしたいと思う?』って言われて、それからです」
そう、秘書さんだけが社員じゃない。
私たち受付の印象一つで、ビジネスの何かが左右されるかもしれない。
そう思ったら、細かいところまで手を抜くなんて考えられなかった。
「そうか、なるほどね―――じゃあ、私も期待に応えないといけないな」
「えー、真面目に働いてなかったんですか?」
相槌を打ちながら立ち上がった無害さんのとぼけた表情にうっかり吹き出したその時、私の背後に華やかな香りが立ち上った。
「もちろん、真面目に働いていただかないと困りますけどね」
背後からの声にギョッとして振り向けば、いつからいたのか、拗ねた顔も可愛らしい社長秘書さんが立っている。
「当然真面目に働く気はあるさ……英気を養っていたんだよ」
「養うのはいいですけど、所在を明らかにしていただけないと困りますって何度も申し上げてますでしょ―――」
無害さんは秘書さんに力なく口答えして腰を上げ、制御室を出て行きがてら私にニコリと微笑んだ。
「ま、まさか……しゃちょうっ?!」
唖然とする私を残して去っていく二人を見送っていると、社長秘書さんがそっと振り返り、艶めいた唇に人差し指をあてて私にウィンクして見せた。
(ヒ・ミ・ツ、ね―――)
いたずらっぽく微笑む彼女は無害さんこと社長の背を護るように、私にひらりと手を振って見せた。