#21 Eleven Fingers
伝説の男が死んだ―――。
その知らせを受けた時、はらわたを引き抜かれたような喪失感を味わった。
「社長……」
そっと寄り添うように立った室長が気づかわし気にこちらを見ている。
どうやら、今の私は相当ひどい顔をしているらしい。
「申し訳ないが予定を調整してくれるか? それと、黒いタイを―――」
掠れた声を喉から絞り出し、時間を捻出するためにさっきまで見ていた書類を手に取るが、そこに印刷された文字は思いのほか滲み歪んでいて、読むのに一苦労した。
「伝説の男」は田舎町の山奥に小さな工場を構える自動車整備工だった。
彼との出会いは私がまだ若造だった頃。
休暇中にドライブをしていたらうんともすんとも言わなくなった愛車に困り果て、携帯電話の電波も届かない山中で出くわしたのが彼の工場だった。
それ以降時々立ち寄ってはバーボンを酌み交わし、寡黙な男がぽつりぽつりと語る「手がけている車の逸話」や「業界の裏話」を聞くのが私の楽しみの一つになった。
田舎町の山奥に引きこもる自動車整備工のどこが「伝説」だったかと言うと、彼が手掛けた車は市販車と全く同じ部品を使用しているのにも関わらず、なぜか次元の違う走りを見せたからだ。
彼は「ミラクルハンズ」「イレブンフィンガーズ」と呼ばれ、好事家達にもてはやされた。セレブたちはこぞってメッセージを送り小切手を切って仕事を依頼したが、偏屈な男は仕事を選り好みする性質な上、ひどく手が遅いのが難点だった。
短気なクライアントに工具を持つ時間を奪われる事に頭を悩ませていた彼に、私は一つ提案をした。
彼の仕事を手助けしていた子猿のようにお転婆な孫娘に、弊社の秘書教育を受けさせたのだ。
レンチやスパナの扱いは巧みでもビジネスマナーや英会話に七転八倒する彼女は「おじいちゃんの為に」と歯を食いしばり、立派に祖父のマネジメントができる秘書に成長した。
その孫娘から祖父の訃報を報告されたのは、彼の死から一週間もたってからだった。
「報告が遅いぞ」
「爺ちゃんが『社長さんは忙しいだろうから』ってさ」
黒いタイを結び手向けのバーボンを提げて苦言を呈する私を山奥の工場で出迎えた孫娘は、遅くなった連絡の理由を悪びれもせずに告げ、歯を見せて笑った。
二人そろって工場の隅の彼の指定席だったデッキチェアに献杯し、乾す。
ふと隣を見ると、彼女は手の中のグラスにたゆたう琥珀の液面を見つめたままだ。
「秘書を辞めたい」
ぽろりと、そうこぼした。
彼女の待遇は祖父である男の意向を汲んで「彼の仕事のマネジメント兼私との連絡係」という役割を果たすことで報酬が発生する「社外秘書」のような扱いだった。
つまり、弊社所属の秘書という扱いだったわけで。
「ヤダ! 秘書の仕事とか、あんたのところが嫌になったんじゃないよ」
私の顔がこわばったのを見て取った彼女は慌てて言いつくろい「こっち」と私の手を引いた。
工場の隅にカバーのかけられた車影の前に連れて行かれ。
「見つけちゃったんだ」
バサリとカバーを引きはがしてみれば、はるか昔に私が「いつになってもいい」と彼に預けたSHELBY COBRA 427が鎮座していた。
車体には傷一つなく、手を付けた形跡はない。
全体を見回してみればドライバーズシートの上にカードが一枚落ちていて、彼のひどいクセのある筆跡でこう書かれていた。
『おい、子猿。お前にこいつの相手ができるかな?』
「今まで爺ちゃんのアシストしたことはあるけど、一台丸ごと任されたことなんて無いんだ。だから……」
いつも「子猿、お転婆猿」と祖父にからかわれていた孫娘が、SHELBY COBRA 独特の優美な曲線に魅了されたように車体を指でたどり、静かにため息をつき―――。
「だから、挑戦したい……」
私をキッと見上げ。
「社長! 私にやらせてください。お願いしますっ」
両腕を後ろに組み、両足を踏ん張り、深く頭を下げる。
その姿を見て過ぎてきた時間が思い知らされた。
はじめてこの工場にやって来た時、私に泥団子を投げつけて笑っていた子猿が全く成長したものだと不思議な感慨が胸を満たし―――。
「……わかった。だが『イレブンフィンガーズ』の名前は重いぞ。覚悟はあるか?」
空のグラスにバーボンを注いで、彼女にもグラスを差し渡した。
「―――もちろん、あの世でクソ爺ィにゲンコツ喰らうわけにいかないからねっ」
晴れ晴れとした笑顔の彼女とSHELBY COBRA 427が見える位置に並んで腰をかけ。
「『イレブンフィンガーズ』に」
彼女とグラスをカチンと鳴り合わせ。
「「乾杯」」
主不在のデッキチェアに再びグラスを掲げて見せた。