誰にでも同じように感じてもらうことは難しいのかもしれません。それこそが個性であり、人間であり、動物であるということなのでしょうか。
新型コロナウィルスという ”死” を現実的に突きつけられた感染症が拡大しているなかでも、天気の良い休日に屋外とはいえ観光地は人で溢れています。
屋外に出たい欲求
都心で暮らしていると、やはり人間に適した間(ま)があるとは言い難いのです。窓を開けていなくても騒音が聴こえ、カーテンを閉めた夜も少なくない量の光を感じる。果たして、動物として心地いい環境なのでしょうか。
そこから、一時的に外出(逃避)することで対ストレスとのバランスが取られていたのは疑いようもなく、自身も都心に住んでいたことからも解ります。
利便から離れることはできるのか
では現状を経験することによって、居住環境についてどれくらい変化をもたらすのでしょうか。集中するということは生産性が高まります、需要も集中することで、新たなサービス提供が可能となります。もしテレワークというビジネススタイルへシフトしたとしても、人間にとっての利便性を究めたアーバンライフを、生活者は放棄することができるのでしょうか。外食に行くところはなく、病院も小さなものしかなく、食料品店までは数キロ歩き、都心までは片道70分電車に揺られなければなりません。
(これが僕のいまの三浦半島での生活)
表と裏があるということの本質的な理解
けれども、農道を歩けば数㌔も信号はなく、夜にはしっかりとした静寂が訪れます。文明と適度な間(ま)があることで、いろいろな考えごとをするには最適な環境です、それが70分電車に揺られる対価です。
不便の引き換えとして価値があるのか否か、それは人それぞれでしょう。
つまり、なにに価値を置くのか、その価値を優先すれば、得られることとと同時に失うこともあるということです。どちらも同時に求めることは理論としてはあり得るのでしょうが、動物的感受性としてはあり得ないと感じています、それが最新テクノロジーのスマートシティであっても。
New Normal
アフターコロナについて、色々な意見が交わされています。人間としての価値は変わり、もう元のままではいられないという人もいます。”喉元過ぎれば熱さ忘れる”のごとし、そう簡単に変われるものではないという人もいます。
僕自身は、どちらでもあると実感しています。これからの社会的秩序の変容は、意識が先行しながら産業を少しづつ変えていくことになり、過去の産業革命同様に、一定の課程は要するのかもしれません。まずは、次の国政選挙における投票率の変動を期待しています。
受容
けれども、ひとつ言えることは確実にスイッチは入ったということ。テレワークも、オンライン授業も、特別定額給付金という国民一律支給(ベーシックインカム的なもの)も、この機に実施されます。経験することは変容する大きな動機になることは間違いありません。
こうした中で、一番の大きな変化は受容ではないかと僕自身は感じています。ウィルスという可視できないものを怖れています、そして収束の目途も見えない時間を過ごしています。つまり見えないものを受け容れざるを得ない現実を体験し続けているのです。
なにかを攻撃すれば解決できた、それは戦い争ってきた歴史のように。けれども、いまは他人や他国を攻撃しても本質的な解決には近づかないことを多くの人が理解し始めています、攻撃とは自身のストレスの矛先でしかないということを。
霞でなく珈琲を好む
緊急事態宣言が発出されてから、髭を剃らずに伸ばしています。みっともないので外出を自粛する小さな動機になればという思いと、#目指せ仙人 というフレーズで仲間と様態変化を笑い合おうと続けています。当然ながら、霞を食べて生きてはいけませんし、悟ることも叶いません。ただただみすぼらしく髭は伸びていき、流浪の様となっています。つまるところ、経験してきた文明から離脱することも、珈琲を断つこともできません。
普遍であること、それが意味するところはなになのか未だ解りません。
凡庸な人間は、危機的な状況の中でも、やはり凡庸であり、それもまた人間らしさとひとり納得している温かな穀雨の夜です。
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