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11月11日1時1分



私が福祉の世界にふと足を踏み込んだのは数年前、友人が福祉施設でのアートワークショップをやるのを交代してほしいと電話をもらったことがはじめでした。

アール・ブリュット自体には興味というより、学生時代から悔しい想いをしていたし、大好きでした。


そして施設でワークショップを数年したある時、何故福祉になんの境界線なく足を踏み入れられたのかを振り返ってみたのでした。

それは母でした。
母は元々色んなことに興味があり、常に弱者に目を向けていて、地道なところから誰かの助けにならないかと走り回っていたような人でした。
私の記憶では私が小学一〜二年生頃。当時の友人の家に(その友人と約束をしていたわけでもないのに)行ったことを覚えています。
奥座敷というか、ずっと奥にこもっていた全盲の方を見つけて最初は3人そのうち二人きりで会っては何かをした。たまに点字を教わったけどもう、私は覚えていない。
今になるともったいないことをしたと思っています…。


母は学生の頃色んな海外に行き、色んな世界を見てきました。ドイツ語学科卒ということもあり、ドイツにはしばらくいたような話をしていたとおもいます。その生活の中で『なんて障がい者が多い国なんだろう?』と思い過ごしていたけど実は日本は外に出していないだけだということに気づいたというエピソードをよく聞かされていました。
その気づきを得た母から得た私の生活は、外国人も障がい者も何も境目のない生活だったように思います。

福祉の専門家ではないため、未だに何のことだろうと思うことや、専門的なことはわかりません。
さらに私との違いもあまり分からず、ただの個性として受け取ってしまっています。(ゆくゆく困るかもしれませんが)

そんな中で読んでいた『あるがままがあるところ』福森伸さん(しょうぶ学園)の本を読んだ際には、これ私自身のガイドブックみたい!と思ったほどでした。

母との関係は常に平等でいて全てにおいてディスカッションを繰り返し私は大人になりました。
私が福祉施設で働きはじめたこと、そこでの閃きや、経験、問題視していることなどをシェアしているととても嬉しそうでいましたし。
障がい者のアートの素晴らしさを話している時には素直で何もオブラートに包まない言葉をくれました。
『何にも敵わない。とてもじゃないけど自分には無理だと打ちひしがれるやろ?』と。


なんて懐かしい記憶の一つなのですが、母との思い出やさまざまなディスカッション。私自身がワークショップの現場でやっていることは、私自身の経験が元になっています。


今、私の悩みや困りごと、成果や今後の展望は母に相談することはできなくなりました。
2018年11月11日、午前1時1分に母は私たち家族の腕の中で息を引き取りました。


私は彼女から受け取った沢山の『何か』を今見つめなおしています。
彼女に教わったようで私が取得した何か。
それを私は私の言語と体験でなければお伝えできません。

私が受け取った何かを少しづつ、誰かに渡していけるといいなと思っています。

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