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受け入れられている感じがする

とあるドキュメンタリードラマを観た。
「京都のお引越し」という作品。

いちばん心に残ったのは、主人公の従兄弟(市原佐紀)のセリフ。

なんかさ、私、いろんなまちに行ったけど、なんていうの。こう、受け入れられてるなって感じるまちもあれば、そうじゃないまちもあるんだよね。まあ、これ、人によって違うと思うんだけど。京都に来ると、まちに受け入れられてる感じがした。そんな感じかなあ…。まあ、自分の時間は限られてるからね。できるだけ機嫌よく生きたいなってすごい思う。

ABCテレビ『京都のお引越し』

「受け入れられてる感じ」ってすごく主観的なものだから、人と共有するのが難しい。
でも、これと似たような感覚を岡山に対して抱いたことがあるなあとふと思った。

もちろん岡山の人が好き。
お世話になった方々がたくさん岡山にはいて、声をかけてくださる方、私の名前を呼んでくださる方々がたくさんいる。
けどそれだけではなくて、知人・友人を抜いたとしても「受け入れられてる感じ」がある。

岡山駅の西口から岡山県総合グラウンド方面を向いているとき。
表町商店街を歩いているとき。
ふとした瞬間にあたたかさと心地よさを感じる。

人と一緒にいないときでも、人と会話していなくても。
ただ道を歩いているときでさえ、「わたし、ここにいていいんだ」って安心感がある。

これまでの自分の日々をすっと肯定させてくれる。
わたし頑張ってきたんだなって素直に思えるように、ちいきが心をリードしてくれる。

その安心感に浸るとき、自分がどれだけ普段の暮らしで心も体力もすり減らしているかを実感させられる。
今の自分にとって岡山が「非日常空間」だから実感できるというわけではなくて、仮に岡山にこのまま住んだとしても、きっとこの安心感と心地よさは続くんだろうなあって謎の自信がある。(どこから来るんだ、この自信は…)

はじめて岡山に移り住んだ18歳当時は、縁もゆかりもない地域で、知り合いも誰一人としていなかったのにな。
好きなんだろうなあ、岡山が。
言い表せないくらい、とびっきり愛おしい地域と出会ってしまったんだな。

作品の中で佐紀ちゃんが言っていたように、自分の時間は限られている。
だからこそ。
行けるときに岡山に行こうって。
会えるときに、大好きな岡山の人たちに会おうって。
改めてそう心に決めた。

2024年1月4日。



年が明けてからいろんな情報が目から、耳から入ってくる。
更新され続ける情報に、ひたすら心が痛い。
わたしにできることなんて限られているけど、一日でも早く安心できる環境と状況に身を置けるようになることを、願います。
大変な状況にある方が必要としているモノ・情報・支援が、求める全ての方々に届きますように…。


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