右も左もわからないまま煉瓦造りの歩道を歩いていた。照りつける太陽がじりじりと肌を焼く。遠くには海が見える。煌めく海面の上を鳶だろうか、大きな鳥が飛ぶ影が動いていた。鳥はどうやって自分の位置を把握しているのだろうか。彼らは上空から景色を眺めることができるので迷うなんてことはないのだろうか。それでも、時々つばめなんかが窓ガラスに頭をぶつけて落ちてしまうことはあるから、前はあんまり見てないのかもしれない。いや、硝子の窓に光が反射して目が眩んだのかもしれない。そうであれば、しっかり前は見ていたということになる。前を見ていても迷子になる時は迷子になる。例えば、今のわたしがそうだ。むしろ前はしっかりと見ていた。「前」と言っても、どちらが前かで後ろは変わってくる。わたしは何をもって「前」と思っていたのだろうか。わたしが「前」と思っていたのは実は後ろで、ここから戻って行った方が目的地になるのではないか。どうしよう。戻ろうか。進もうか。いや、進もう。なにか飲むものはないだろうか。海水が飲めれば人類は渇きを知らぬ生物になるだろう。足元に目をやると、煉瓦の欠けたところが目に付いた。欠けたと思っていたのは蟻の行列だった。黒い塊が渦巻いていた。一体なにに群がっているのだろうとしゃがみ込むと、腹部に穴が開いたスズメバチの死骸を蟻の群れが持ち上げて運んでいた。蜂には単眼と複眼と呼ばれる目が五つあるらしい。光の差し込む角度によって方向を知り、平衡感覚を保っているという。この蜂はなぜ道の真ん中で死んだのか、「太陽が眩しかったから」と書いたのは、カミュだ。蟻たちは死骸を黙々と運ぶ。わたしは地面から視線を上げて再び歩き始めた。太陽が傾く方が西であることは間違いない。喉の渇きは満たされなくとも、方向を知るには太陽が必要だ。履いていた片足のスニーカーを前に向かって飛ばした。スニーカーは裏返って着地した。明日になったら雨が降るかもしれない。雨が降ったら、渇きは満たされるが方向は分からなくなる。そしたら、また太陽が昇るのを待とう。その頃にはわたしの目的地は決まっているかもしれない。
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