解体と忘れる人――世田谷区民会館・世田谷区役所 前川國男設計(一九六〇年昭和三五年竣工)
五月三〇日、世田谷区役所で本庁舎の施工業者である大成建設が記者会見を開いた。東京新聞によると、会見内容は当初、今年七月に一期の工事が完了予定だったものが、最大八ヶ月延びることを明らかにするものだった。大成建設は昨年一二月にも工期の延長を報告しており、今回は二度目。区役所は、仮庁舎から一部新設された庁舎に移転を計画していたという。会見を受け、保坂展人世田谷区長は「損害賠償についても協議する」とコメントしたそうだ。
前川國男はモダニズム建築の代表的人物、仏建築家ル・コルビュジエ、米建築家アントニン・レーモンドの元で学んだ、板倉準三や三山順三らと並ぶ、日本におけるモダニズム建築のパイオニア的存在だ。第一庁舎は二〇一四年にDOCOMOMO(Documentation and Conservation of buildings,sites and neighborhoods of the Modern Movement) JAPAN――一九八八年に設立された近代建築の記録と保存を目的とする国際学術組織――選定「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に指定されていた。前川による建築もいくつか選定されているが、すでに解体されている建物も存在しており、国際組織として強い権限はないようだ。
戦後、日本の復興を象徴したのは前川や丹下健三らが先行したモダニズム建築だった。彼の世田谷区役所に対する想いや経緯は京都工芸繊維大学教授の松隈洋氏の「美術手帖」でのコラムに詳しい。以下は孫引きになってしまうが、世田谷区役所コンペ応募案の説明書に前川は以下のように記している。
戦争によって破壊された日常のコミュニティーを取り戻すため、区民が集う自由な空間を設計する。これが前川が念頭に置いた世田谷区役所の意義だった。
恥ずかしながら、この報道でわたしは世田谷区役所が前川國男の設計であることを知った。世田谷区民になって十年になるが、こんな近いところに彼の建築物があるとは――しかも、すでに解体工事の最中であるという瀕死状態――。今すぐに行かねばならない。そう思い立ち、わたしは報道のあったその五日後、六月四日に徒歩で区役所に向かった。
世田谷区役所通りを真っ直ぐに世田谷線の踏切を越えて、世田谷税務署を右手に進むと、世田谷区役所第一庁舎の隣で白い無機質なフェンスに囲われ、工事の足場で覆われた痛々しい姿の世田谷区民会館が見える。わたしはカメラのレンズをその建築物として死にゆく姿に向けて、シャッターを押した。まるで病床の人物にカメラを向けるような罪悪感と虚しさを覚えた。
辛うじて第一庁舎は区民会館と隣接する部分だけが足場に覆われた状態で、第二庁舎(一九六九年、昭和四四年竣工)に至ってはまだ足場も建っていない状態だった。その隣に新庁舎が骨組みになって建設中であった。外から見ると、解体工事と建設工事の外観は同じで、人間が生まれるのも死ぬのも病院の中であること――変死や突然の出産、または自宅での最期や出産を望む場合を除く――を想起させた。
近くで見ると、コンクリート柱の縦に伸びるいくつもの木目が当時、木で外枠を造り、コンクリートを流し込むという手作業の痕跡を確認できる。途方もない時間と労力を思わせる。上野にある世界遺産にもなった、コルビュジエ設計の国立西洋美術館は前川の指示のもと、清水建設会社の森岡四郎が現場監督を務めた。この方法は彼によるものだという。その後、前川は清水建設が請け負う仕事の現場監督はこの森岡を指名したそうだ。
第一庁舎において象徴的な塔には、なぜか棒高跳び男子と走り高跳び女子の記録が丈比べのように記録されている。二〇一六年、リオ五輪時の金メダリストの記録らしい。解体工事前には走り幅跳びの記録も赤煉瓦の地面に記されていたようだが、こちらはすでに工事のフェンスで遮られてしまっていた。結局、『東京オリンピック二〇二〇』(コロナ禍のため、実際に行われたのは二〇二二年)の記録は記されぬまま解体へと至ったことが、まるでこの国の現状を表すようだ。
HOMMヨというバンドのボーカル/ギター、ニイマリコによる二〇二一年のソロアルバム『The Parallax View』の一曲目に「解体」という曲がある。そこで彼女は「何か大きいものが解体されているけど、それが何か忘れてしまった」と無常観を歌っている。マイナー調のエレクトロサウンドにのせて、情感を抑え込んだ歌い方が独自の世界観を表現している。
工事フェンスに掲げられた改築後の完成予想図には、笑いながら区役所のピロティを歩き回る人々が描かれている。まさに「解体」が歌うように、彼らはここに何があったのか、まるで忘れてしまったように見えた。それは、東京オリンピックのゴタゴタも、コロナ禍の混迷も、もうすでに忘れつつある社会を映す鏡のようだった。
国木田独歩の小説に「忘れえぬ人々」という作品がある。『武蔵野』(岩波文庫)に収録されている掌編で、溝の口にある宿場での出来事を綴ったものだ。小説家の大津という男が居合わせた若い絵師、秋山に自身の『忘れ得ぬ人々』という原稿を夜を徹して読み聞かせるという作中作で、タイトルからも分かるように印象深い人物造詣をひたすら語る。忘れ得ぬ人について、大津は原稿にこう書いている。
面白いのは、後に大津が原稿用紙に向かった時、秋山が彼にとって「忘れ得ぬ人」にならなかったというオチだ。これはとても示唆的で、語り手と読み手の関係性と捉えると、語り手にとって読み手は「忘れる人でしかない」ということだ。
世田谷区民会館も区役所も解体されるまでわたしが気にも留めなかったように、新たに生まれ変わったその場所を意識して通る人は恐らく、そういないだろう。通り過ぎる人々は皆、互いに忘れ得ぬ人にはならない。だが、ここでわたしが書き記したテキストは読み手にとって〝忘れ得ぬ何か〟になるかもしれない。もちろん、それをわたし自身は知る由もないし、忘れてしまうのだろう。わたしの記憶はここに記した時点で過去となり、読み手へと受け継がれる、あるいは忘却される。そのことさえも、わたしは忘れる人になるのだ。
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