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連載小説【ミックスナッツ】|EP.10 その人は

 今まで何度か男の子から告白されたことはあった。けれど、一度も恋愛に興味を持てなかった。さらに言えば、男性に興味を持つことがなかった。学校自体は共学だったけど、周りには女の子たちしかいなかった。みんなが恋愛話をキラキラ話していたけれど、女の子たちが言う「カッコいい」「好き」という感覚が少しも分からなかった。

 最近はLGBTとか、ジェンダーレス、ダイバーシティといった言葉をよく耳にするようになった。正直、そんなよくわからない横文字たちも恋愛自体も、まったく気にしていなかった。
 心のどこかで自分は恋愛しない人なのかもしれないなと、少しだけ気楽なような、どこか恥ずかしいような気持ちを持て余していた。誰かを好きになるという感覚も、付き合うということも、結婚も、誰かと生活を共にする将来も、なぜかまったく興味を持てなかった。

 あの日、美咲さんから不意に名前を呼ばれるまで。


 あの9月中旬としては少し肌寒い日曜日。
 今思い出しても、耳の奥で忠実に美咲さんの声が再生されて、一瞬で身体が熱くなる。少し冷静になった時には、何年もずっとぼんやりとしていた輪郭がハッキリと厚みを帯びて、それが恋であることを容赦なく突きつけてきた。
 同時にけたたましく警報が鳴るかのように、頭の中で激しく否定の声が入る。女性同士。恋愛をしたことのない自分には手に負えない。何かの間違いじゃないのか。
 強い否定を何度も繰り返して心を沈めても、最後の最後にやっぱり耳の奥で、呼ばれた自分の苗字と整った暖かい温度がリフレインしてしまう。心地がいい。もう一度聴きたい。名前を呼んでほしい。まるで一時期流行っては廃れていったラブソングのような感情を持て余し、恋以外の理由を探し、誰にも言えず、何もないフリをしてアルバイトを続けた。


 美咲さんは、毎月第2日曜日に必ず来店する。おそらくその日以外も来店しているのかもしれないけれど、基本的には月に1回。私が働く前からずっと通ってくれているお客様で、近くの会社に勤めているらしい。オーナーと仲がよく、来店するとよく楽しそうに話しているのを見かける。店内が混み合ってなければ、楽しそうな暖かい声が聴こえてくる。

 私は、表面上は何も変わらない毎日を過ごしながらも、抱えてしまった、形のない上手く言葉にできない感情にぶん回されていた。単純な喜怒哀楽のどれでも現せないその形のないものは、一瞬だけキラキラと輝いたかと思うと、すぐに破裂して冷たく暗いものになっていった。
 急速に冷たくなったそれは、そもそものセンシティブを多大に含んだ現実問題を突きつけ、私を底の見えない海深くまで引っ掴んでいき、まるで息ができないような焦りを覚えさせた。真っ正面で立ち向かうには光が見えなかった。苦しいから考えたくない。けれど、気づけば考えてしまう。
 周りの女の子たちもこんな苦しい思いをしていたのかと考えたり、それとも女同士だからこんなに苦しいのかと考えたりと、答えの出ない問いで頭が溢れてしまって停まってくれることはなかった。
 この気持ちだけは。これだけは、誰にも知られてはいけない。強く強く、心に刻んで、口を噤んだ。噤ぐほか方法がわからなかった。
 時期がちょうどよかった。大学受験が正念場を迎えていたこともあり、10月中旬から3ヶ月間だけアルバイトを休ませてもらった。元々高望みせずに自宅から通える志望校だったこともあり、早々に受験は無事に終えて、アルバイトに復帰した。
 
 少しだけ。少しだけ期待して入った2月2回目の日曜日。店頭に並べていたミモザの水替えをしようと店先に出たところで、少しラフな姿の美咲さんに声をかけられた。心地よい温度を耳が捉えて、思わず耳を立てて喜ぶ犬のように反応してしまった。忘れてしまおうと頑張った努力は一瞬で蒸発してしまったけれど、姿を捉えて確かな喜びを感じた。

 いつも通りの美咲さん。ただ大きく違うのは、目の前に立っている相手はオーナーではなく私。隣に並ぶと、美咲さんの顔が少し下になる。うまく会話をしたいと思いながらも、緊張して言葉が出てこない。私もいつも通り。質問に淡々と返すことになる。
「え。じゃあ成瀬さん、私の後輩だね。私もそこの大学だったよ。もうだいぶ前だけど。」
 とても嬉しそうな声が聞けて私も嬉しくなる。家から近いというだけで選んだだけだが、そういってもらえるなら、正直分かりきっていた合格発表よりもテンションが上がった。
 
 オーナーが美咲さんに気付いて美咲さんは中に入っていった。しばらくして、やっと息を大きく吸って仕事に戻った。黄色く優しい香りがした。
 店内では、美咲さんとオーナーの声が聞こえる。
 いつも通りの第2日曜日の午後。幸せな温度の午後だった。



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