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連載小説【ミックスナッツ】 | Ep.4 声

 美咲さんが毎月第2日曜日に花を買いに来ることに気づいたのは、受験を控えた高校3年生の9月のことだった。その時は、定期的にアルバイト先にお花を買いに来るお姉さんという意識なだけだった。名前も知らず、定期的にお店にいらっしゃる常連さんと店員というだけ。
 お花はもともと好きだった。縁があって、自宅から数駅離れたところにある駅近の花屋さんでアルバイトを始めたのが、高校2年生の夏だった。平日は学校があるので、シフトは基本的に週末のみ。部活もしていないし、好きな人もいなければ、休日にわざわざ遊ぶ友達もいない。私の顔は、別に不細工というわけでもないが、特別綺麗なわけでもなく、愛想もどちらかというと悪い。流石に接客する時は、最低限の愛想がいいように振る舞うようには心掛けている。そんな見え透いた愛想笑いの私を、不器用の一言で笑って許してくれるオーナーだからこそ、今まで続けてこれた仕事だ。
 名前を知ったのは、なにも自発的なものではなくて、予約表に氏名と連絡先を書いてもらったからにすぎない。そして、その時に自分が彼女に恋をしてしまったことに驚きを隠せなかった。明らかに、今までの自分が全く知らない感情だった。そして気づいたと同時に、とてつもない困惑の渦に巻き込まれ、海の底に到達し、憂鬱になった。 

 好きになってしまった日のことを覚えている。耳が覚えている。忘れさせてくれない。
 いつもオーナーと楽しそうに話す綺麗な声。本当は前から知っていた。その人が話すと、いつも周りの空気が温かく整う感覚がする。見た目の印象よりも少しだけ低く、しっかりと響く、芯のある声。予約票を丁寧に書く華奢な指先を目でなぞっていると、目の前で俯いたままに綺麗な声が響いた。
 「成瀬さんっていうんですね。かっこいい苗字で羨ましいな。私、日本で一番多い苗字なの。」
 書き上がった予約表の名前を確認して、確かに。と思いながら、言葉に詰まる。
 「あ・・はい。あの・・。」
 耳の中で、呼ばれた自分の名前だけが響いて頭がパニックになる。耳が熱い。目の前でゆったりと次の言葉を待つ微笑んだ美咲さんと目が合って、それからよく覚えていない。多分、そっけなく伝えることだけ伝えたような気がする。美咲さんは、ふんわり笑って帰って行った。レジの中から、店を離れていく後ろ姿を小さくなるまでぼーっと見ていた。


 今年も、向日葵が店頭の目立つところに並ぶようになって、暑さもとっくに本格化している。私が働き始めて2年が経って、後輩のアルバイトもできた。と言っても、オーナーと同世代の主婦の方たちなので、その方たちを含めてもアルバイトは数人しかおらず、相変わらず最年少のポジションのままでオーナーに甘やかしてもらっている。
「成瀬ちゃんは本当に頼りになるね。お花も詳しいし、合わせる花もセンスいいよね。」
 元気に笑いながら話しかけてくれる同僚に、謙遜して、ぺこりと頭を下げる。
「この2年で、だいぶ接客できるようになったもんね。」
 すかさずオーナーも笑いながら、話に乗っかる。今でこそ言える話だが、高校2年生当初は、愛想笑いが酷すぎて、優しい常連さんもびっくりしていたらしい。今はとりあえず、フツウには接客できるようになったので、オーナーも安心できるようになったと褒めてくれる。またちょっとだけぺこりと頭を下げる。2人の笑い声を聞きながら、このアルバイト先で良かったと心の中で呟いた。お盆が終わって、やっと少しゆったりとした時間ができた。お店にお客さんがいないこの時間帯、注文の入っているブーケを作りながら、考え事をする。
 大学生になってからは、平日にもシフトに入れるようになった。学校の課題も問題ない。生活も大きく変わらないので安心している。変わったことと言えば、N原と一緒にいることくらい。少し前に教室で知らない女子に、N原といるのはなぜかと問われた事がある。正直返答に困ってしまって、曖昧な返事をしてしまった気がして少し心配したが、今のところはトラブルはないので助かっている。
 N原と一緒にいるのは、やっぱりしっくりとくる。理由は自分でも分からないけれど、あのデカいキツネには、騙されないだろうなっていう確信がある。自分と同じ不器用なのが安心するのかもしれない。

「成瀬さん。」
 途端に耳が熱くなり、急いで顔を上げる。作業台を挟んで、美咲さんがこちらを見ていた。
「・・はい。何かありましたか。」
 初めて話をした日から1年近く経つというのに、いまだに上手く話せず、少し掠れた声で応対してしまった。耳の熱さがバレていないか気にしながら、ふと異変に気づく。
「あれ?今日は水曜日ですよ。平日に来られるの珍しいですね。」
 思いがけず、スッと言葉が出てきてしまった。そしてすぐに、いらぬことを言ってしまったと後悔と焦りでまた黙ってしまう。美咲さんは気づいていないのか、普段と変わらない様子で穏やかに言葉を返してくれる。
「そうだよね。普段は仕事の折り返し頑張るぞって、お部屋用に買ってるもんね。今日はね、プレゼント用に成瀬さんに選んで貰いたくて。」
 完全にフリーズしてしまった私を見て、美咲さんはまた声をかけてくれる。
「オーナーがね、成瀬さんがアレンジ上手だって教えてくれたの。お願いできるかな・・・」
 そのまま、予算や色などを話し始めるので、メモを取りつつアレンジだけを考えるよう努める。
 簡単な打ち合わせだけして、予約表に書かれていく丁寧な文字に視線を送る。まだ書き終わらぬうちに、自分より少し低めの位置に顔が上がり、パッと視線がかち合う。
 美咲さんの口元が動くのを見ながら、見惚れていて言葉の理解が遅れた。綺麗に微笑まれ、同時に、耳に自分の名前が届く。
 私は完全に理解した。
 私は美咲さんが好きだ。

 そしてこれは、決して知られてはいけない。

 私は相変わらずのマニュアル通りの接客をした。美咲さんもいつも通りの笑顔で立ち去る。今日は目線はすぐに手元に移した。


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