時間の切っ先に立つ私/その先の遠景
俺はもう結構生きてしまった、と普通人は考えている。
そう考えて、振り向けたい方向に舵を切るだけの体力はもう残されていない、と思い込み、現在の惰性に固着させようとする。
見えないのは現在だけ。ずっと現在だけが見えなかった。目隠しを外せば、果ても知らない遠景が広がっていたことは、でも今でもわかっているはずなんだ。
思えば生きてきて、遠景だけしかなかった。でも見晴かすことはできないから(だって目隠しは外せないし)、だから、鼻梁にかかった目隠しの隙間からかすかに見える足下、歩き方の癖を、自己模倣するしか生きる術がないと思ってきた。思わされてきた。
でも遠景は、思ったよりも遥かで、空間は、思ったよりも茫漠であったのは、それこそ「結構生きて」きたからわかる。だからこそ、時間の切っ先に立つ私は、目隠しの向こう側に広大なその先があることを肌で感じている。その広大を、肌で感じることを恐れない自分を、発見している。
その広大は、思ったよりも優しいのだと思う。
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