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「うたた寝する暇があったら、世界を見てきなさい」

人と人が対話するとき、多くの場合は言葉を使う。コロナでリモートワークが進むと同時に、チャットやビデオ会議など、言葉をベースとした対話が増えている。

言葉で伝えれば、伝わると思っていた。どんなに分かり合えなさそうな人とも、言葉で対話すれば理解できると思っていた。けれど、実際そうではないらしい。言葉、強いていうと”情報”、に集約できないところに触れるべき何かがたぶんある。

そこにあるものは、言葉だけじゃないはず。息遣い、まばたき、身振り手振り、会話の間合い、その日の天気や気温、お昼ご飯に何を食べたのか、今日どんな靴下を履いているのか、その他もろもろ。。。

こういうことは、会議の議事録には載らない。”情報”として送受信されない。けれど、人と人との対話では、”議事録に載らないようなこと”から生まれる感情や心持ちというものが、確かにあると思う。対話する相手が今日どんな服を着ているのか、どんな風にお茶をいれたのか、どんな風に道を歩くのか。”情報”に置き換え可能な、ある種わかりやすいものについ目がいくけれど、”空気感”や”気配”のようなものが運ぶものを見落としてはいけないように感じる。

一方的に受信できる”情報”だけで全てをわかった気になってはいけない、ということなんじゃないか。そこには理解や想像を進めるための一助があるだけで、そこに全ては詰まっていない。実際に触ってみたり、ひっくり返して裏側から観察してみたり、こちらから質問を投げてみたりしないと、”現実”や”実際”にはなかなか近づけないと思う。

昔、ある人からアドバイスをもらったとき「色々言ったけど、やった人じゃないと絶対分からんから、考えすぎず色々試してみたらいいと思うよ」と言われた。言われた通り、私はアドバイスの全ては理解できず、歯痒さに「こんちくしょう」と思っていた。けれど、月日を経て「ほんとそうだなあ」と(少なくとも当時よりは)思う。

”情報”だけで、わかった気になってはいけない。”情報”ではなく、”現実”に触れないといけない。「うたた寝する暇があったら、世界を見てきなさい」って言葉、いい言葉やったな。。



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