喫煙所

隙あるものを愛でていたい

ここ数ヶ月のあいだ、いろいろと思い悩んでいた。自分がつくるものは、ただの消費物と化していないだろうか、その場をとりつくろうためだけのものになっていないだろうか、という気持ちがでてくるようになった。

せっかく作るなら誰かの何かにふれるものにしたい、という欲が出てきた。絵に出来ることはなんなのだろうか、ということも考えるようになった。

そんなことを考えていたときに、よくいく六甲道の喫煙所の絵を描いてみることにした。理由は特にないけど、なんとなく愛着がある場所を描きたくなって夜遅くに黙々と描き上げた。

これを描き上げた時点では、まちなみの絵を描くのはけっこう楽しいぞ、ということくらいを感じていた。いつも目にする光景を絵という形で改めて目にするという体験そのものもちょっと面白かった。

次はすきな地域の温泉の絵を描こうと思い、次の日の夜にすぐ描いた。こちらも理由は特になくて、自分の好きな場所を絵にしたかった、ただそれくらいの理由で。

大好きな灘温泉がかけて大満足。風にふかれながら帰り道をかえるのが気持ちいいんだよな~またいきたいな~などと思いながらフィニッシュ。完全自己満足タイム。次は何をかこうか、という気持ちでペンを置く。

そして次の日から心境の変化が起きた。いつもの道を歩く中で私の頭の中はネタ集めモードになる。そのモードになってから、まちの見え方、もっというとまちで生活する人の見え方に変化があった。

今まで特に意識もせず見ていた人たちをみていると、みんな結構それぞれに色んなことをしているのである。

駅の近くで小銭をおとすおばあちゃんと、それを進んでひろいにいく学ランの紳士。お菓子屋さんの前で一度手に取ったお菓子を売り場に戻すランドセルをしょったおんなの子。一生懸命バックするトラックをとめようとする40代くらいの新人警備員のおじさん。

それらはまちで生活する人々の隙であり、物語であり、人間味だったりする。愛おしくて、愛でたくなるものである。そんな場面に遭遇したとき、「なんか愛おしいからこれを絵に納めたい!!!」と思うようになった。「みんなこのまちで生きてんな~」という気持ちにもなった。

完璧なものには隙がない。隙がないものは息が詰まってしまう。あまりにも正しくて、非がなくて、見ているこちらの肩身が狭くなってしまうこともある。

それよりは、愛おしくなるような隙を愛でられるものを作りたい。人間らしくていいじゃん!すきよ!となれるものを作りたい。人間らしい人を愛しく思うし、その人の人間味に触れられたときに初めてその人と本当の意味で会話ができたと感じることさえある。

そういった気持ちにさせてくれる表現物が好きなことが腑に落ちた。音楽にしろ、本にしろ、映画にしろ、自分のはなしに置き換えて日常をめでたくなるような気持ちにさせてくれる手触り感のあるものがすき。

芸大にいっている訳でもないし絵はほぼ我流だけど、生活する中で自分が感じたことや見たことから表現をしたい。どんな風に描くかもその人の味であるけれど、何を描くのかということもその人の味でありすごく重要なはず。

いいものがつくりたい。ただそれだけである。

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