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始末の精神

部屋の散らかりと同じ速度で心がすさみつつある気がして、ふと部屋の掃除をしようと思い立った午後21時。台所と洗面台、便所掃除を終えて、いつもはいているズボンたちをきれいに折り畳み直していたその時。ズボンの裾が汚れていることに気がついた。おそらく、自転車に乗っていた時に裾がこすれて、汚れがついたんだと思う。履いていた時は全く気づかなかった。

生活していると、ふと我に帰る瞬間がある。それは、生活のきほんの「き」が落っこちてしまっている時。ものすごく恥ずかしくなる。どれだけ面白いアイデアを生み出していようが、どれだけ素晴らしい出来栄えで仕事をこなしていようが、自分が排泄物を出す便所も磨けていない、自分が買ったものも大切にできていない、本棚やテレビ台に溜まったほこりもふけていない、なんていう状況(わたしは仕事の精度もまだまだなんですけども)。そんなのは、いくら仕事や勉強で素晴らしい成果を出していようが、全然だめだめだな〜と思ってしまう。

だからこそ、ものごとの始末に向き合える人がすごくかっこいいなと思う。いつかそういう仕事をしたいとすら思う。”生み出す”人ももちろんかっこいいのだけれど、ものごとを”始末する”人も、同じくらい(それ以上かもしれない)かっこいいと思う。というか、始末する人も、始末とともに"別の何か"を生み出しているのかもしれない。ちょっと前にYoutubeで見かけた、ごみ収集の仕事をする人、すごくかっこよかったなぁ。あの人は確実に、始末しながら"別の何か"を生み出していた。

そういう気持ちがあるからこそ、家のキッチンが汚れていたり、水まわりに汚れが溜まっていたりと、自分自身の始末の未熟さに気づく瞬間はすごく反省する。

吹奏楽部に所属していたころ、自分の楽器をメンテナンスする時間がすごく好きだった。「身の回りを整えると気持ちがスッキリする」という単純な話だと思うけれど、始末の精神がここにもあったのかもと、ふと思う。

部屋で煮詰まって頭がかたくなっていたこのタイミングで思い出せてよかった。汚れていたズボンの裾に感謝。


*おまけ:ゴミ収集員 岳裕介さんの話

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