自分で自分の生き方を選んでいいんだと認められた日。
安定した職業につくこと
手に資格があること
結婚をして家庭を持つこと
正職員であること
完璧な自分であること
経済的に余裕があること
料理や掃除ができて家庭的な人間であること
人から褒められる自分であること
あいつは出来ないと思われないようにすること
怒られないようにすること
失敗しないようにすること
できるやつだと思われること
嫌われないようにすること
そうすることで自分を守ってきた。
怒られないようにするために、失敗しないように、見捨てられないように、期待を損なわないように、緻密に布石を張っている姿を、周りは「すごく気がきいて仕事ができる」というふうに評価してくれた。
誰かから評価してもらえることがとても嬉しかった。
褒められることが嬉しかった。
感謝されることが嬉しかった。
それが私の評価の全てだと思った。
危機感のアンテナを常に張っておけばミスすることはほとんどなかった。
ただ、これはハリボテの城で、誰か一人でも不機嫌な雰囲気を醸し出す人がいたり、怒られてしまったり、後輩がミスをして監督責任者が私の時、後輩と一緒に怒られたりなんかした時はこの城はすぐに崩れてしまう。
こんな城はどんだけ作り直したって壊れるに決まってるんだけど、当時はものすごく必死で作っていた。
これを壊れるたびに傷ついて落ち込んで、何度も何度も作り直して行くうちに脆くなって壊れる頻度が増えて作爆発してしまったんだと思う。
そして、私が1番そばにいる【自分】を褒めることを今のいままで忘れてたし、できなかった。
今回、あるきっかけで、看護師の仕事をぜーんぶ辞めた。全部。
農作業とかもした。
で、東京戻ってきた。
そしたら思った。
今、全てが自由になった時にさまよってしまって、どうしたらいいんだ…
看護師でもいいし、看護師でなくてもいい、バイトでもいいし、非常勤でもいい、放浪してもいいし、しなくてもいい、
何をどうしたらいいかわからなくなった。
そんな話を
素敵な大好き先輩看護師さんに相談したら
「選択できるということもまたつらいよね」と言ってくれた。
選択する自由がある
それはつまり
自分で選んで決めなければならない。
ものすごくハッとした。
たくさんの選択肢があるから悩んでるんだ、今。
それは幸せな悩みかもしれないけど、自由だから楽だということではない、ということにも気づいた。
絶対看護師であるべき必要は無い。
絶対正職員であるべき必要だってない。
理想の嫁にもならない選択肢になってもいい。
(彼氏の親は許してくれるかな、家事と掃除はすきなのでやります)
子供は欲しい。笑
(この辺彼氏許してくれるかな)
そうなったときに【自分は何をしたいか?】
というふうに思った。
自分に問いかけた時に
「看護師だから○○の方がいいかもしれない」
「大学院に行けばなにか極められるかもしれない」
「大きい病院で務めたら安心かもしれない」
なんて浮かんだけど
それは看護師としての話、自分はどう思うの?
また固定観念に囚われていると思った。
もちろん先にあげた私の固定観念は、私にとっては苦しかったものだったが、それが幸せだと言う人もいるかもしれない。
だけど、私自身はどうだろうか。
看護師というステータス
先に囚われた固定観念
全てを取り払った時に、自分は何をしたいか、どんな風になりたいかを考えた時に
【熱意のある人と一緒に働きたい】
【いろんなことにチャレンジしたい】
【自分の知らないことを知りたい】
【誰かの役に立ちたい】
漠然とそんな思いが残った。
それを仕事にしたいと思った。
そんな人と仕事をしたいと思った。
自分の生き方は自分でデザインしていい、チャレンジしていい、休んでもいい。
そんなふうに思えたら、少し肩の荷がおりた感じがする。