なぜ演劇だけが死ぬのか
ずいぶん前に演劇を離れた身ですが。
「音楽や、スポーツのイベントだって、売り上げが下がって、関係者が路頭に迷う恐怖を感じつつも、更なる感染を防ぐため、人命のために涙を呑んで中止にしてる中で、何を演劇だけが我が儘を」
という風を感じてざわざわとした。
ちょっと待ってくれ、待ってくださいよ。
音楽における「ライブ」は、だって「音楽」そのものではないじゃないですか。
「ライブは最高!」かもしれないけど、ライブで演奏されなかった曲には価値がないだとか、そんなこと思う人はいないでしょう。
CDでも、配信でも、音楽を発信することはできる。
予定していたライブが中止になって、収益は出ず、バンドは解散に追い込まれるかもしれない。だけど追い込まれたときにまだ、CDが、まだ、配信が、まだなんとか、頑張れれば、と抗うことができる。
演劇は、映像にするのなら映画やドラマという他の相応しい形態が既にある。
演劇は劇場で上演されることで初めてその価値が生まれる。
たとえライブビューイングやDVD販売があったとしても、まずは公演されないと劇が成り立たない。
演劇には、闘うことすらできない。
劇場の閉鎖がそのまま文字通り「死」に直結するのはたぶん演劇だけ。
それくらいで死ぬ演劇はもうとっくに死んでたんじゃないですか?
という呟きを見た。
その通りだと思う。
そもそも、小劇場系の演劇ではその規模の座席数を満席にしたとしても、売上に対して利益は見込めず、どんなに成功した公演でも赤字になる構造であることが随分前から指摘されている(私は平田オリザ氏の本でこれを読んだ覚えがある)。
利益が出せない演劇は資本主義のシステムから弾き出されているとも言える。
演劇が時代遅れで、不便で、間違ったものであることは間違いない。
ダーウィンの進化論の世界であればとっくに淘汰されるべき存在だと思う。
演劇人が常に問われることは、「それでも存在する覚悟があるか」ということだ。
関係ない話ですが、私はこの問いに負けました。いや、いつかはまたやりたいと思っているので完敗ではないのかもしれないけど、とにかく一度は負けました。
この状況下で、この世論の中で、公演を続けるのは誰がどう見ても間違っているでしょう。
「続けないといけない」なんて言い出す人は狂って見えるでしょう。
実際私も「だから決行するべきだ」という結論にまでは至りません。観客と演者の自己責任で済む話ではないし、自分勝手が過ぎると思う。
だけどこれを「演劇の死」と恐れる気持ちだけはわかる気がした。
そしてこれは、劇場や市民ホールと呼ばれる類の劇場に通ったことがあるか、演劇というものに携わったことがある人間にしかわからない焦燥である気がした。
商業はともかく、劇場一本の劇団は再開できるようになる頃には資金不足で団員が離散して潰れてる。休業補償を出せる母体もない。中の数人は死んでいるかも。
何なら劇場が経営破綻してる可能性もある。
再生できる保証はどこにもない。
空白の期間が生まれれば、その世代の若者には劇場で演劇を観た経験が生まれない。当然そこから、演劇やろう!なんて無謀な夢、あるいは熱病のごとき呪いにかかる演劇人も生まれない。
そういう意味で、演劇は死ぬ。
公演ができないともうそれだけで死ぬ。
弱い文化だ。
弱いと、生きるために必死になる。
今、演劇人たちの声を見て、「なんでこいつらだけこんなに自分勝手なんだ」「見苦しい」と感じただろうであろう人への私なりの解説でした。
「だから許してほしい」とは結びません。