「無知」が放つ精一杯のパンチライン
私が無知であると良く感じるのは広く芸術を楽しむときである。
対象をよく観察する、説明を自分なりに解釈をする、そこまでは良いのだが、心の中で精一杯の "素晴らしい" を唱えるに留まる。
絵画にしろ、本にしろ、映画にしろすべてそうである。言葉にしない、文字に起こさない。しないのではなくできない。深く考察できるほどの下地となる知識を知らない。そんな無知蒙昧な自分を恥じながらも、現実から目を逸らしていた。
だが、いつも人間の原動力は、無知であることなのではなかろうか。生きている中で起こる自然現象が一体なんなのかわからないから、科学が始まり現代に至る。
そう考えると無知なことは決して恥じることではない。それは自分自身の世界を広げるためのチャンスであり、いまを生きる魅力である。だとすれば、「自分=無知」であることに気づかなければチャンスすら与えられず退屈でつまらないものとなってしまうだろう。
「自分=無知」であると気づぎチャンスを得たならば、早速動かないことよりほかはない。そう思い、たくさんの輝く種を拾う日々。
新しい向こう側の世界に浸る、こんなに楽しいことはない。