フジノルイ

京都在住。書評とエッセイの冊子『累劫(るいこう)』刊行中。

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最近の記事

ナチズムの現実と「もうひとつの現実」 池田浩士を参考に

 池田浩士はドイツ文学をはじめ、天皇制、ナチズムといったファシズムにおける文化、また現代文明論や死刑廃止論など、多岐に渡り論じている人である。1968年から2004年まで京都大学に、2004年から2013年まで京都精華大学に在職。現在も講演や執筆を精力的に行なっている。  僕は精華大学に入学して池田氏に出会い、卒業後も彼の主催する「ロマン的なるもの研究会」という読書会に参加してきた。ただ、池田氏の著書については、学生時代に一度読み始めたものの難しくて挫折してしまい、以来ほとん

    • 「最も卑劣な殺人」へと至らぬために

       3月4日に誕生日を迎えた。28歳になった。いつのまにか28歳かぁ、としみじみ、いや少し焦りながら思った。ここ3、4年くらいが、あっという間に過ぎてしまっていた。  歳をとっていくごとに時間の流れが早くなるというのはずっと昔から言われていることだけど、僕にとってもその感覚は例外ではなかったらしい。特に去年はその速度を実感した年だった。ただ、その2020年というのはやや事情が違っていた。  2021年が明けて間もなく、久しぶりの友人と会って話した。そこで互いに一致したのは、この

      • 優しいままで

         今月の初め、久しぶりに姉と母親に会った。会った、といってもその時間は3時間にも満たないごくわずかなものだった。コロナウイルスの影響であまり長く滞在しているのも、ということも理由の一つではあったが、それを差し置いても済ませなければいけない用があって、2人は僕のいる京都に、実家の福岡からはるばるやって来たのだった。  それは猫だった。実家の庭に迷い込んできた小さな猫。僕の実家では猫を5匹飼っているが、これ以上は飼えないという判断を前からしていたので、庭にとどまる猫の貰い手を探

        • 日々の澱、日々の喜び

          労働労働労働労働。誰もが安全地帯になどいず、先の見えない不安を抱えながら生活をしているここ数ヶ月。テレワークなど無縁な時給労働者はそれでも今日も働きに出かけなければならない。わが家には給付の申請書どころかマスクも「お肉券」も一向に来ないのだから。 5月12日現在、コロナウイルスの全国感染者数は減少傾向にある。事態はやや好転しつつあるように見える。が、緊急事態宣言が仮に解除されたとしても、半ば内面化された「不要不急」な「不謹慎」という思いはなかなか払拭されないだろ

        ナチズムの現実と「もうひとつの現実」 池田浩士を参考に

          青春の終わりを僕はなにに言い換えよう

          昨年の12月、僕は約3年付き合っていた人と結婚式を挙げた。式を挙げたのは家から歩いて10分ほどにある小さな式場だ。 僕は京都に移り住んで8年になる。この式場の前も、何回も通ったことがあったから認識はしていた。でも、自分がここで式を、ましてや結婚するだなんて思ってもみなかった。 連れ合いがメイクをしてもらっているあいだ、暇ができた。僕は外をブラブラすることにした。といって、目新しいものなどない。何年も住んでいる街だからだ。それが心地よかった。この街で式を挙げられるの

          青春の終わりを僕はなにに言い換えよう

          誰もいない、誰もいはしない。冬だ。冬の朝の街には誰もいず、僕は背中を丸めて歩いている。 風は冷たい。春のそれのような喜びはなく 、夏の爽やかさもない。誰もそれを歓迎しない。だが、恨むこともない。ただただ、通り過ぎるのを待つだけだ。 そして僕は、風と共に通り過ぎていく日々を、切実に感じている。冬の朝を歩くと、そんなことを思う。 風を感じながら、この街で過ごした短くはない年月と、そこで見た景色を思い出す。それは美しい。しかし空虚だ。街の思い出、思い出の景色。それらは「何もな

          雨の日に/この夜だけは

          肌にまとわりつくシャツにじっとりとした汗を感じながら、あるいは底冷えする身体の寒さをこらえ身を擦りながら、夜を歩く。静かな路地に声が響く。飲みすぎた酒による胃の不快感はこれからもっと強くなるだろう。だからそれを忘れるくらいに話をしたい。音楽を垂れ流しながら馬鹿笑いをしたい。ささやかな乾杯のグラスの音を聞きたい。この夜を失いたくはない。 いつだって、友人たちと話しながら飲むのは楽しい。僕はひとりではほとんど飲まない。飲むときはよっぽどどうしようもないときだ。 心がからっぽに

          雨の日に/この夜だけは

          忘れてしまわぬように

          ある日、近所のマクドナルドで改装工事をしていた。 家のポストにそのことを知らせるチラシも入っていた。リニューアルした内装のイメージ写真がついていて、機能的ですっきりしたレイアウトになるようだった。 僕は京都に住み始めて八年になる。その間にいろんな店だとか場所が変わっていくのをみた。 ラーメン屋、スーパー、コンビニ、本屋。一度も入ることなく「テナント募集」の貼紙がされていたところもあれば、それなりに通っていたところもあった。各々の場所にはもちろんそこで働いている人たちがいた。

          忘れてしまわぬように

          はがれる

          先日、学生時代から八年間住んだ部屋から引っ越した。  長年暮らした部屋を出ていくとなると、いろいろと思い出すことはある。毎日毎日帰ってきては変りばえのない部屋だなあと思っていても、少しずつ日々の澱は溜まっているものなのだ。  それは単純な経年劣化だったり汚れだったりする。そういったものに感傷的になることはない。むしろ部屋を出ていく際の忌まわしい足枷のようなものだ。擦ろうが拭こうが全然取れない。それは自己責任だから仕方ない。こまめに掃除をしていなかった僕が悪いのだ。  引っ越す

          ジャズの体験、『JTNC』あるいはささやかなジャズ・ガイド

          ここ数年離れていたジャズを、最近また聴き始めている。 きっかけは批評家の柳樂光隆氏が発行しているムック『Jazz The New Chapter(JTNC)』の影響だ。 これは現代のジャズシーンを、何本ものインタビューを元に、そこから見えてくる「ジャズ」というものをいくつもの文脈から繙いていったものだ。この本が与えた影響はかなり大きいものだろう。 ジャズ雑誌といえばいまだに「ピアノベスト100」など銘打って同じような5.60年代のアルバムを毎年特集するばかり。つまりいまのジャ

          ジャズの体験、『JTNC』あるいはささやかなジャズ・ガイド

          権利と権力(七尾旅人とハインズから)

           こないだふと七尾旅人のインスタグラムを見返していたら、二年前の投稿が目に入り、あったなあと思った。  その投稿にはインスタにしては長い文章が書き連ねられている。内容はある特定のライブ客に対するお願いだ。曰く、いつも早くから席取りをして、いちばんいい場所から、リハの時点からじっと見てくる。大体どのライブにもいる。そういった振る舞いは演者にとってはあまり気持ちのいいものではない。  何より、そういった場所は子どもとか、前に人がいてはステージの見えないお客に譲るなどしてほしい。震

          権利と権力(七尾旅人とハインズから)

          sabaのライブ

          sabaのライブ 約2年ぶりに東京へ行ってきた。目的はライブ。sabaというシカゴのラッパーの初来日である。 シカゴのラップ勢力というと、ひとつは殺人件数米トップという不名誉な記録を残したシカゴの現状を表したような、鈍重で緊張感のあるビートに載せるドリル・ミュージック。10年代前半から台頭cheef keefを初めとする一派。そしてその重苦しいイメージから脱却し現状を変えるための運動も精力的に行なっている、chance the rapper率いる「セイブ・マネー」周辺

          sabaのライブ

          東京のスキマ

          東京のスキマ 2年ぶりに東京へ行った。彼女も一緒だった。僕の当初の予定は渋谷で行なわれるライブだったが、東京都美術館で開催されているムンク展に彼女が興味あるとのことだったので、せっかくだからとふたりでの旅行となった。 小さいのに大きい東京は、電車ですぐどんなところでも行ける。華やかな街も、オシャレな街も、生活の街も。 旅行といっても、僕たちは観光地を巡っていたわけではない。渋谷や上野公園なんかは行ったけど、あくまでそれはライブ会場と美術館という、目的地のある場所だ

          東京のスキマ

          忘れないから書く(追悼文)

          9月のはじめ、恋人から借りて久しぶりに『ちびまる子ちゃん』を読んだ。5巻。家族でフランス料理に行く回や、花輪くんがのど自慢に出て、みんなでそれを応援しにいく回などが収録されている。好きな巻だ。 主要キャラよりやたら描き込まれているおっさんとかブサイクとか、家庭での妙な言い回しやしきたりだとか、「あるなぁ」と思わせられる描写に、昔と変わらない笑いがこみ上げてきた。 しかし、昔とは違う悲哀もたしかにそこにあるのだった。それはさくらももこさんが、すでにこの世に亡いという事実である。

          忘れないから書く(追悼文)

          書くことの自己陶酔と自己嫌悪

          佐々木中と田中宗一郎。このふたりはいま僕が「この人の文章を読みたい」と思う人たちである。 作品を読みたい、というのとは少し違う。ふたりは哲学者と音楽ライターであるが、とにかく文体がかっこいい。佐々木中は著作『切りとれ、あの祈る手を』で、ただこれはインタビュー形式の本であるので、実質初めて文章に触れたのは京都精華大学准教授就任の際の、自己紹介文だった。そして田中宗一郎はウェブサイト「サインマガジン」での、ケンドリック・ラマー『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』のレビューで。

          書くことの自己陶酔と自己嫌悪

          「恋」じゃなくなる日(映画『リズと青い鳥』評)

           控えめな靴音、山鳩の声、涼しげな朝の匂い。澄んだ空気が伝わってくる。気弱そうな少女は階段に座って、大好きな人を待ちわびている。うるんだ瞳から涙がこぼれないように。もうすぐ会えるという期待と、来るとはわかっていながらも少しの不安を胸に。いつも過ごしてきたであろうその朝の停滞に包まれている。  彼女がやってくる。溌剌とした足音だけでそれはわかる。紅潮した頬と、そのおかげですっかり乾いてしまった涙のあとに、ようやく少女の世界は動き始める。彼女の後ろを歩く。靴を履き替える。音楽室の

          「恋」じゃなくなる日(映画『リズと青い鳥』評)