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お金があってもできないこと

「お金さえあれば」
という考えを持つ人が増えているらしい。

確かに、今手元に30億あれば、色々やりたいことは確実に!叶えられる!
なので、お金なんていらない!とは全く思いません。資本主義社会なので。

極論は置いておいたとしても、
実際問題、いまの社会においてどのくらいの問題がお金"だけ"で解決できるんだろうか。

よくこの問題について考えるときに思い浮かぶのが、トー横キッズ。私は実際に目撃したことはないが、よくネットで目にする。YouTubeでもよく見かける。

男子?男性?のトー横キッズ事情には詳しくないけれど、とにかく女子、それも小学4年生とかの子が売春で稼いでいたり、月に500万以上稼ぐケースもあると知って驚いた。

単純計算で年収6,000万?!わりとどこでも住めるし旅行し放題じゃん、と目先のワクワクに飛びついたところで、いや、その金はどこから、何をして得ているんだ...と我に返る。

そんなにたくさんのお金を得て一体彼女たちは何をするのかというと、ホストに貢ぐのだそう。

うーん、と思わされる。

この問題は一体何が原因なんだ。私にできることって、なんなんだろう。

もし、ホストに行こうとしている女の子に近づいて口説いたとしても、絶対に口説き落とせない。なぜなら、、、なぜ。考え方が違うから?価値観が違うから?


人は生まれてすぐ、赤ちゃんの状態のときに、生命維持に必要なお世話のみ(食事とか、オムツ交換とか)を淡々とされたら、死んでしまうらしい。

以下、私の大好きなPerplexityから教えてもらった情報を共有します。

愛情の重要性を示す歴史的実験

13世紀に神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世が行った実験が有名です。この実験では、50人の赤ちゃんを集め、以下の条件で育てました。

- 十分な栄養とオムツ交換は提供
- 目を見ない
- 笑いかけない
- 抱かない
- 話しかけない

結果は悲惨なものでした:

- 2年以内に27人が死亡
- 17人が成人前に死亡
- 11人が成人したが、多くに知的・情緒障害が見られた

この実験は倫理的に問題がありますが、愛情のないケアが赤ちゃんの生存と発達に深刻な影響を与えることを示しています。

今回私が「お金さえあれば」という思考に対していつも思うことは、人間には、根本的に、生きるために、まずは「愛情」が必要だということ。

13世紀の実験って、いったい何年前??と計算もできませんが、とにかくね、人間が生きていくにはまず、愛情が必要なんだってこと、13世紀の実験からもわかるし、さっきのトー横キッズの話からもわかるのではないでしょうか。

つまり、

・なぜトー横にキッズが集まるのか
→親から適切な愛情を受けられていないから(家が貧乏であれ金持ちであれ)

・なぜか大体ホストにハマるのはなぜか
→ホストがくれる偽物の愛情を本能的に求めてしまうから

という方程式が私の頭の中に出来上がっていて。

じゃあどうすればトー横にキッズが集まる問題を解消できるか?というと、きっとそれは

・適切に愛情を受けられる環境
・居心地の良い居場所
・ここにいて良いんだという安心感

なんじゃないかなぁ、と思っている。
そして施策を上記3点のみに絞ったとしても、それってお金だけで解決できるのか?と問われると、うーん?と首を傾げてしまう。

つまり、本物の愛情っていうのは、いくらお金があっても得られないものなんじゃないだろうか。


私の話にはなるが、私の母親は私が10歳くらいの頃から精神疾患を患っていた。

うちはわりとお金はある方だった。
だから中学生以降、食べ物がないことに苦しんだり、制服を買えないだとか、そういうので惨めな想いをしたことは一度もない。

ではなぜ中学生以降なのか、というと
小学生の頃までは、父は家計管理を全て母に任せていて、仕事で夜中まで帰ってこないのが当たり前だったから、平日子供たちがどんなふうに過ごしているのか、ご飯を食べているのかなんて知らなかった。

母親は精神疾患とはいえ、情緒の変化が激しくて、あまり鮮明には覚えていないけれど、その当時勤めていたパート先の同僚と夜中までよく飲み歩いたりしていた。

そうなると、お金も持っていない小学生の私と当時幼稚園児の妹は、当然お腹が空く。でも、家にはそれらしい食事はもちろんない。

だから当時は、氷か、パン粉か、じゃがいもがあればそれをレンジで蒸してバターをたっぷり塗って食べていた記憶がある。とにかく家にある食べられそうなものを片っ端から食べていた。そうするしかなかった。

この間自分でコロッケを作ったのだけど、すごく久しぶりにパン粉を食べてみたら、当時の記憶とか気持ちがわあっと蘇って辛かった。

中学生になったタイミングで母が入院したこともあり、家計管理は父がするようになって、家にいない日はそのままお金を渡されるようになった。

だから、料理はあんまりしなかったけど、惣菜屋とか、弁当屋でよく食べ物を買って食べていた。

いまだに私は惣菜屋のお惣菜も、弁当屋の弁当も嫌い。当時の記憶がセットになってしまっているから。


当時の私を救えたものってなんだったんだろう?

大人になった今、真剣にそういうことを考えるようになった。明確な答えには辿り着けていないけど、たぶん答えの中の一つには確実に「愛情」がある。

きっとそれは親からの愛情だけに限らず、祖父母や他人からでも良かったんだと思う。

実際、当時よく面倒を見てくれていた祖母にはとてもとても感謝してるし、今でもよく電話する。大好きな人。

だけどやっぱり、特に子供のうちは大人みたいにいろんなことを"ちゃんと"やるっていうのが難しい。

例えば食事の準備だったり、毎日の掃除や洗濯だったり。そういうのをちゃんと毎日見てくれる人(だいたいの家庭は母親が担ってきた部分。いまは共働きが主流になり、家事代行なんかも台頭している)が、当時の私には必要だったんじゃないかなぁ、と思う。

大人になってから自分の過去を振り返ると、こういう部分が足りなかった、本当はあのときこうしてほしかった、って思いがすごく強く怨念のように自分の中にぐるぐると渦巻く。

一時期はこの怨念を昇華させて、自分自身が児童福祉に携わりたいと本気で考えてた。

だけど、最初のトー横キッズの問題に戻るけど、結局個々に必要な支援をオーダーメイド式で実施したいとなったとき、1人の支援員ができることってすごく限られているのではないか、と思った。

そして、その限られた支援を受けた当時の私は本当に救われるのだろうか?と思うと、多分無理だなと思った。

だから、まずもってこの記事の結論として、お金があってもできないこと、得られないもの。それは愛情。

それを一旦仮説として置いた場合、
もう一度、私にはなにができる?何をするべき?
と問うと、色んな案はあれど、

「私が億万長者になってバカくそでかい児童福祉施設を建てて困っている児童を全員救う」

というちょっとデカすぎる結論にいったん着地しました。

ほんとは、正しい在り方としては
政治で問題の解決に取り組む、とか
こういう問題があるということを多くの人が正しく理解し、それが起きないよう適切な行動をとる
とかが、良い?というか、在り方としての正しさなんだと思う。

実際数年前にはこども家庭庁もできたしね。
ちゃんと機能しているかとかあんまり知らないけど、こども家庭庁ができると知ったとき、過去の私が少しだけ救われた気がしたのは強く覚えている。

話がまとまらなくなってしまった。

とにかく、
お金さえあればなんとでもなる、というのは、確かにある程度のラインまでは正しい。

でも、人間及び生物は、本能的に愛情を求めているということを、もっと多くの人が正しく理解した方がいいんじゃないだろうか、と思っています。

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