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病室 著:前花しずく

 世界には「指定難病」と呼ばれる病気がある。文字通り、現在の医術ではどうにもならない病気。身体が徐々に動かせなくなってしまうパーキンソン病なんかもそれに含まれていたりする。
 少年が患っている病気も、この指定難病の一種であった。なんでも、肺が委縮して呼吸がうまくできなくなる病気なのだとか。症状は突然現れ、やれ酸素ボンベだの人工呼吸器だのがんじがらめになったコードを体内にたくさん刺されることもよくあった。そういうわけで、この少年は物心ついた時から、国立針山病院の東棟412号室にいるのである。
 少年は勤勉であった。病院にあった子供向けの本は全部読んでしまったし、母親が持ってきた本はその日のうちに読み終えてしまう。そうやってたくさんの本を読んだものだったが、ある一冊の本だけはとても気に入って何度も何度も、糸がほつれるくらい読んでいた。その様子が看護師たちには物珍しかったらしい。
「君も物好きね。その本を読むのもう何度目よ」
「だって僕、この話が好きなんだもん」
「そう言うけど、好きにだって限度があるじゃない」
「別に好きなんだからいいじゃん」
「止めはしないけど。さてと除菌除菌」
「うわっ、スプレーが顔にかかるよ!」
「あぁ、ごめんごめん」
 とまあ、こんな感じだ。
 その本というのは、外国の作家が書いた冒険のお話だ。男の子が野を駆け山を駆け、喧嘩をし盗賊と戦う。体勢を崩して捻挫をしたり殴られて骨折したりしながらも、最後は夢であった騎士王にのぼりつめるのだ。
 その自由さと気概に溢れる男の子に、少年は心の底から憧れたのである。当然、少年は野を駆けたことがない。草原のにおいも、海の風の爽やかさも、捻挫の痛みさえ知らないのだ。少年は男の子の持つすべてに憧れたし、憧れれば憧れるほど悲しくなって一人泣くのであった。
 泣くときにはいつも白い四角いクッションを抱えていた。これは以前友達からわざわざ送ってもらったものなのだ。自分には自分のことを想ってくれる友達がいる。そう思うだけで少しだけ胸が暖かくなるのだ。
 そんな少年にも楽しみがないわけではなかった。昼間、カーテンが開いている時には外の景色を見ることができる。庭には桜や紅葉などの立派な木々が並んでいて、かわりばんこで見ごろを迎える。その様子を毎日じっと眺めるのが少年のささやかな楽しみなのだ。
「外なんか見てよく飽きないねえ」
「飽きるもんか。あんなに立派に色付いてくれてるんだもん。僕らに微笑みかけているみたいだ」
「君はたまに文学的なことを言うから困るよ。さてと、消臭消臭」
 看護師は二言三言話すと、除菌スプレーだの消臭剤だのを撒き散らかして去っていく。実は誰にも言ってはいなかったが、少年はそれらがばらまかれると途端に息が苦しくなるのだ。しかし酷く痛むとかそういうことはなかったので、特に気に留めることもなかった。

 庭の紅葉が真っ赤に染まっているある日のことだった。
「僕、明日から外に出られるの!?」
「走ったりはまだ難しいけどね。家で普通の生活をする分には問題ないと思うよ」
「やったぁ! 先生、僕嬉しい」
 少年の病気は一旦治まる傾向にあったのだ。少年は喜びいさんで帰り支度をしたし、看護師から隣の病室の人からみんなして拍手で祝福をした。
「嬉しいなぁ、楽しみだなぁ。玄関に近付くにつれて息が軽くなるみたいだよ!」
「もう、あまりはしゃいで走ったりしちゃ駄目よ」
 母親に手を引かれ、少年は外に向かって歩いていく。しかし、少年にはもう「はしゃがないで」などというのは無理な注文であった。
「外に出れば今は紅葉のじゅうたんができているんだろうなぁ。その上に手を広げて寝転がりたいなぁ」
 膨らむ期待に我慢しきれず、少年は早足で病院の外へ出た。
「えっ」
 しかし、そこにあったのは少年が思い描いていたようなものではなかった。頭上にはいつもの突き抜けるような青空はなく、真っ黒い煙が一面を覆い尽くしている。病院の庭には紅葉どころか木一本植わっておらず、無機質なコンクリートで固められていた。
 さらに酷いことに見渡す限りコンクリートむき出しの建物が建ち並び、各所の煙突から黒煙が上がり、色という色が失われていた。駆け回りたくなる野原も、少なくとも地平線まではないだろう。
「どうして、これ。どういうこと」
「あ、一度も病院から出たことがないから知らなかったのね。これが『本当の』世界よ」
「本当の?」
 産業が発達しすぎたせいで、世界は黒い煙に包まれてしまった。木も草も枯れ、水も汚染され尽くした。到底人間が暮らせる場所ではなくなってしまったのだ。
 しかし、人間には発達した技術だけはある。そこで人間はすべての環境が整えられた建物の中で暮らすことになったのである。水もろ過し、空気も浄化して室内に循環させた。建物同士の移動も極力外にいないように、乗り物もとても進化した。
 外へ出ることがほとんどなければ建物の外見を凝る必要もない。すぐにどの建物もむき出しのコンクリートになってしまった。この世界にはもう「自然」は存在しない。ただただ人工物と人間があるだけなのである。
「そんな、そんなわけあるもんか! 僕はこの目で見たんだ、この目で」
「病院の窓は全てスクリーンになっているのよ。病気には自然が一番の薬だなんてよく言うしね。お母さんもあそこの景色は好きになっちゃった」
 母親は少年の顔色を伺うこともなく、はははと笑い飛ばした。
(じゃあ僕が憧れていたのはなんだったんだ。僕が好きだった自然はなんだったんだ。全部嘘っぱちだったというのか!)
 頭がぐちゃぐちゃになって、涙を目に溜めながら白いクッションを思いっきり抱きしめた。少年が一つだけ確実に分かるのは、経験したことがないくらい肺の調子が良いことだけだった。

「あの子、結局クッション持っていっちゃったの?」
「そうよ。なんであんなにあれを気に入ったんでしょうね」
「あら、知らないの? あの子、あれが友達からの贈り物だと思ってるのよ」
「そうなの?どこからどう見ても普通の病院の備品なのにねぇ」

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