マリオネ・テスタと空欄[K] 第四話
著・亮月冠太朗 絵・市川正晶
俺は宵に、焼ける空を見上げる。
焔がただれた眼にしみる。
屋上が焼き野原のように赤く染まり、そこに俺の影だけがどす黒く伸びている。
「あの日、お前が失ったものは何だ?」
空が鳴る。その中心を睨みながら握る拳の中で、固体にも似た血流を押し殺す爪が今にも割れてしまいそうだ。割れてしまえばいい。解き放たれた怒れる血が体内を駆け巡り俺を急かす。そうして前だけを見て生きていけるのなら、どれだけ幸せだろう。また空が鳴る。あの日、お前が失ったものは友達、青春、輝く瞳ではないか。
そのすべてが正しい。そして根の部分で間違っている。
俺は失ったのではなく、負ったのだ。
友達、青春、輝く瞳と引き替えにして。
責め、償い、疼く傷を引き摺っている。
二十人の同級生が死んだ。そのことでつらい思いをしたのは俺だけではない。むしろ俺以上に、彼らの親や友達は心に傷を負った。
彼らは俺を責めなかった。俺がまだ子どもだったからかもしれない。俺もまた、心に傷を負っていたからかもしれない。しかし俺は彼らと同じ側に立つわけにはいかなかった。二十人の同級生が死んだのは俺のせいなのだ。
だから俺は泣かなかった。皆は眼の火傷のせいだと言ったが……そうじゃない。涙を流す資格がなかっただけだ。この眼はちゃんと生きている。しっかりと、自分が行くべき道をとらえてくれている。
全員、生き返らせる。
俺には何も見えていなかった。しかし、すべてが見えていた。この世界のすべてが見えているという確信があった。そしてその確信は、こうして空を見上げている今も、胸中にシン・と宿っている。
空の遙か先、宇宙のことを考えた。
宇宙飛行士はゴミを成層圏で燃やすという話を聞いたことがある。俺たちはこの狭い世界の中で完結した生き物だ。宇宙に進出した「彼ら」が死んだとき、その魂は地球に帰れず成層圏で燃え尽きる。ゴミと同じように。
先生、ご休憩中に失礼します。振り返ると、白衣の男が身を縮みこませていた。うちの助手だ。名前も経歴も把握しているが興味はなかった。ある程度の頭脳があることさえわかればいい。
「被験体からの魄の抽出に成功しました」
「……そうか」
ここまではわかっていた。まだ喜ぶべきではない。これが「人形」を動かすエネルギーとなってくれるのか、はっきりさせなくてはならない。
研究室に戻ろう。背を曲げた男の横を通り過ぎる。その間際、彼の肩を掴む。「敬意を払え」
「被験体」ではない。彼女は――
――僴間莉瑠(かんまりる)だ。
「あ。見える人でしょ、お兄さん」
初めて会ったとき、彼女はまるで生きているようだった。幽霊というのはその字の通り、向こう側の景色が透けるほどに幽(かす)かな存在だ。しかし彼女は、生きている人間と何ら変わりなかった。むしろ並みの人間よりも活き活きとしていた。
「十灯(ともしび)だ」
「ともしび?」
「名前だ」
「名前か! かっこいいね。私はね」
「僴間莉瑠か」
「えええ。なんで知ってるの」
「知ってるも何も、そこに書いてある」
あごで墓石をさす。名前が刻まれている。彼女はあ、そうでしたと恥ずかしそうに舌をちろりと出して見せた。「へへへ。死んだのだいぶ前だから忘れてた」
「そうなのか」
俺が見ることのできる幽霊は皆、死んで間もない者ばかりだった。彼らは初めは姿がよく見えるが、月日とともに薄くなっていく。彼女の姿はこれ以上ないほどに、はっきりと見える。
「幽霊にもいろいろあるんじゃない? しらないけど」
彼女はどうでもよさそうに手首をぷらぷらと振る。本当にただの人間と話している気分だ。調子がくるう。
「十灯さんは誰のお墓参り?」
質問に容赦がなさすぎる。母親と死別した息子だったら発狂して涙をまき散らしているところだ。
「墓参りじゃない。用があってきた」
「用? お墓参り以外で?」
こんな都会のオアシスみたいな何もない霊園に、墓参り以外に用があるの? 彼女は信じられないとでも言わんばかりに眼を見開いている。霊園をオアシスと呼ぶ彼女の感覚の方が信じられない。
「あ。私みたいな幽霊に会いに来たんだ」
「違う。ここの土を取りにきた」
「つ、土」
甲子園か! 彼女のすばやい平手打ちが俺のからだを通り抜ける。
「ここの土は甲子園のより貴重だ」
思わずほころび、あわてて咳払いをした。
彼女を見ているとこちらの調子が狂いそうだ。早く土を採って研究所に戻ろう。密封式の袋を取り出した。墓石のまわりの土をすくい、袋に入れる。
彼女はそれを不思議そうに見ていた。初めて理科の授業を受けたように、顔をぽかんとさせている。
「実験にここの土が必要なんだ」
「ふうん……ここのじゃなきゃだめなの?」
「ああ」
霊園ならばどこの土でもいいのだが……敢えて言わなかった。俺はこのわずかの間で、彼女に強い興味を抱いていた。彼女のことをもっと知りたい。なぜ彼女が、死んでからもこれほど強く、この世に存在しているのか。
そのために、彼女との繋がりを作って帰りたかった。
「だから、また来るよ」
「そう」
また来てね。いつでも暇してるから。彼女は手を振って俺を見送った。半月の形になった瞳が、死んだクラスメイトを思い出させた。
ああ、そうなのかもしれない。
俺は彼女を、死んだ二十人の同級生と重ねているのだろうか。高揚感に包まれているのは、土が採れたからではないだろう。
いけない。かつての、同級生との思い出が彼女に上書きされてしまいそうだ。思い出せ、俺は彼らと繋がっている。鎖のように重く錆だらけの絆で。それは決して切れることがない。そして、切ってはならない。
――散歩ちゃん、あぶない!
未夕が散歩を突き飛ばす。倒れた散歩が振り向くと同時に、倒れた柱が未夕を押し潰した。
「兎鷺(うさぎ)、あんた、なんで私なんか」
違う。潰されそうになっていたのが誰だろうと、彼女はその人を助けていただろう。自分を犠牲にして。それは散歩もわかっているはずだった。
未夕は吐血していた。からだは柱の下にある。助けることは……。
「行くぞ。死ぬ気か」
拳聖(けんせい)が怒鳴った。はっとして彼を見る。眉間にしわを寄せながらも、彼のからだは出口を向いていた。お前、未夕だぞ。未夕じゃないか。彼女はいつもクラスを支えて、いや、俺たちを支えていたじゃないか。そんな――
「お前、未夕を見捨てるのか」
「うるせえ」
頬が激しく鳴った。殴られたのか、俺は。
「俺らまで死ぬぞ。未夕が命張って助けてくれた俺らまで死んだらそれがみ、未夕を見捨てるってことじゃねえのか。ぶっ殺すぞ」
俺は殴られたショックでその言葉の半分も頭に入らなかったが、自然と足は動き出していた。目を落とすと散歩は脱力して、その場にへたりこんでしまっている。拳聖が無理矢理その腕をつかんで彼女を立たせた。彼女は後ろを気にしながら、よたよたと走り出した。
店内の棚や通路の案内板の下敷きになっている人が呻いているのが見える。煙を気にしてうずくまっている人もいる。閉店後だから大勢ではないが、それでも……苦しんでいる人は、沢山だ。
炎は出口にまで迫っていた。非常階段から一階の出口に向かうか? 三階にも外への出口があったはずだ。どれが正解だ? 躊躇している間にも炎はフロアを確実に侵食していた。
むしろ、俺たちが今まで死なずに生き残っていることが不思議だった。ほとんどの生徒は皆、最初の爆発で消し炭になってしまったのだから。拳聖が俺たちをここまで引っ張って来てくれたのだ。彼がいなければ、俺たちも同じようにただの黒い塊になっていただろう。
拳聖は少し迷っていたが、まわりを見回し口を開いた。
「三階は煙がかなり来てるはずだ。一階に行こう」
「向こうに非常階段がある」
俺は緑色の光を確認していた。よし、行くぞという彼のかけ声でからだを奮い立たせる。服を着ているのが煩わしいが構っている時間はない。眼に入る汗をぬぐいながら必死に走った。
散歩は俯きながら走っていて、ずっと「なんでこんなことに」と呟いていた。それがいつしか「十灯のせいだ十灯のせいだ十灯のせいだ十灯のせいだ十灯のせいだ十灯のせいだ十灯のせいだ十灯のせいだ十灯のせいだ十灯のせいだ十灯のせいだ十灯のせいだ十灯のせいだ「うるせえ。犯人探しは助かってからだ」拳聖が怒鳴る。どう見ても散歩は正常じゃなかったし、それに怒鳴る拳聖もこの場で余裕を失いつつあった。
俺が生き残っていいのだろうか。最初、竹山が燃えながら吹き飛び、「ざまあみろ」と思った。それと同時に数人の生徒が視界をかすめ、悲鳴を上げながら倒れた。瞬く間に炎は店内から溢れ、壁を突き破り隣の店舗、向かいの店舗へと移っていった。今ではこのフロア全体に火が回っている。すべて俺がしたことだ。
さっき、俺が柱に気づいて散歩を突き飛ばすべきだった。生き残っても、何も嬉しくない。こんな俺が生き残っても、意味がない。
緑色の光にたどり着き、唖然とする。GAB……服屋の看板だ。非常口ではない。
「終わりだ」
拳聖がかすれた声で言った。彼が言うのでは、もう本当に終わりのように感じられる。
しかし俺の中には、彼らとは異質のある決意が「まだ終わりじゃない」と声を上げていた。
店の中に入る。拳聖の呼ぶ声を無視して店内をまわる。よかった。まだ燃えていない服がある。袖の長い服を何着か、三人で抱えられるだけ抱えた。どうするんだ、と聞く拳聖に、俺はフロアの中央を指さす。
「噴水広場だ」
このショッピングモールには地下一階に噴水広場があり、そこは建物の天井まで吹き抜けになっている。地下一階にも外への出口があったはずだ。一階ではなく、一気に地下一階まで降りれば安全に外へ出られる。
二階から地下一階へ、十メートル弱の高さを降りなければならないわけだが、服の袖同士を結べばロープになる。どこかの店舗にはちゃんとしたロープが置いてあるのだろうが、探している余裕はない。
服を結ぶとそこそこの長さになった。柵から下へ垂らすと地下一階に達した。よし。柵の一端に服を結ぶ。「これで降りられる」
散歩にロープとなった服の先を渡す。受け取り際、じろりと俺を見て「許さないから」。許さなくていいから、助かってくれ。今の俺は、皆を助けることしか考えられない。彼女がするするとロープをつたって降りていく。途中で手を滑らせて地面に落下してしまったが、大した高さからではなかったようで、俺たちを見上げて手を上げた。無事に降りられたようだ。
続けて拳聖が降りる。お前が先に降りろと言う彼の手に、無理矢理ロープを握らせた。下で散歩とふたりになりたくないと言うと、納得して下へ降りていった。それでいい。拳聖は器用にロープにくっつき階下へ降り立った。「よし、お前も降りてこい」服の結び目を解いた。
ロープが宙を舞い、火の粉を浴び燃えながら拳聖たちの足下に落ちる。
「俺はみんなのところに戻る」
「戻ってどうすんだ。一緒に死ぬのか」
そうだ、と言おうとして口をつぐんでしまう。死ぬのか、という問いに戸惑う自分に驚く。生き残りたくないが、死にたくも、なかった。どっちかしかない。そんな当たり前のことに、今になって気づいた。
生と死の間をさ迷う……幽霊のように。
しかし、後戻りはできない。
「もう、死ぬしかない」
二階と地下一階を繋ぐ路は途絶えたのだ。背後でGABの看板が激しい音を立てて破裂した。二階はもう、どこにも顔を向けられないほどに熱で満ちている。
「お前のせいじゃない。原因はたくさんある」
「火をつけたのは俺だ」
「悪いのは竹山たちだ。お前は抵抗しただけだ」
「抵抗して、竹山は死んだ。それだけじゃない。皆死んだ。みゆだって」
「それでお前が死ぬ理由にはならない」
「なるさ」
俺は皆が好きだった。拳聖も、未夕も、散歩も。弱いくせにちからを振りかざす竹山も、今となっては大切なクラスの一員だったのだと思える。
「いいから飛び降りろ。俺が受け止める」
「ごめん」ありがとう。
拳聖の声を背中に受けながら、その場を立ち去った。皆が死んだ場所へ向かおう。全身を炎に焼かれて死ぬか、肺を焼かれて死ぬか、何にせよ楽に死ぬことはできないだろう。
すみません、そこの君。かすかに聞こえる声に気づく。振り向くと雑貨屋の中にいる男性と眼が合った。棚の下敷きになっている。額から頭頂部にかけて髪が禿げ上がっているが、どこかしら若さを感じた。
「よかったら助けてくれませんか」
なんとも腰の低い言い方だった。ちょっと待ってください、と駆け寄り、棚に手をかける。かなりの重さだったが、なんとか持ち上げることができた。男性はああ、ありがとうと言いながら、店の奥へ入っていってしまった。
「あの、早く逃げた方がいいですよ」
「うん」
男性はレジから万札を抜き取り、懐に入れた。よし、行こう。男が笑う。背筋がぞっとした。彼は俺の顔を見て、おいおい勘弁してくれよと肩をすくめた。
「人間万事塞翁が馬、だ」
お前もこの火事で生き残ったら、幸せが待っているさ。男はそう言い残し、他の店舗へと走り去っていった。盗めるだけ盗むつもりなのだ。
俺はもう、動く気力をなくしてしまった。必死になって下した決断が、安っぽいものに感じられた。俺は生きることを、いや、自分のすべてを、諦めてしまったのだ。その選択が尊いわけがなかった。それで俺が殺した人への謝罪になるわけがなかった。
もっと貪欲にならなければ。
贖罪に対して、生に対して、未来に対して、貪欲になれ! 多くの友達が死んだ。善良な人が死んだ。そして醜い害悪が生き残る。俺も生き残らなければ。自分がこれから彼らのために何をするべきか、そんなことはわからない。ただ、俺の魂が「生き残れ」と叫んでいる。
ここから抜け出そう。外で拳聖と散歩と抱擁を交わそう。立ち上がり、叫んだ。声にもならない声を出した。自らを囲む炎への反撃の狼煙だった。
次の瞬間、目の前が真っ白になった。強い光で照らされたのだ。手でそれを遮り、光源を見る。ライトだ。救急隊員のライトが、俺を捉えていた。
「こっち側にいてよかった。奥にいたら助かっていなかったよ」
人間万事塞翁が馬、だ。男の声が脳裏に響いた。
外は中よりも遥かに騒々しかった。消防車や救急車のサイレン。野次馬のがなり。中継するレポーター。様々な音が入り交じっている。嵐の海に投げ出されたような気分だ。
拳聖と散歩はどこだろうか? 地下に降りれたのだから、とっくに外に出られているはずだ。近くにいた警官に話しかける。僕と同じくらい子供を他に見ませんでしたか。地下から外に出たはずなんですが。警官は何か言いかけたが躊躇い、口を開いたまま、同情の眼で俺を見た。それが答えだった。
二階の床が崩れ、地下にまで火が達した。火は激しくないが、地下の出入り口は夜になると封鎖される。密閉された空間にガスと煙がたまっているという。まだ……わからない。噴水広場の周辺にいれば、そこだけは吹き抜けだから、まだ無事なはずだ。
「残念だが、広場にいても助からない」
吹き抜けになっていて地下の出入り口が塞がれているのだから、酸素は地下からなくなっていく。警官は俺の肩に手を置き、本当に残念だ、と言った。
拳聖と散歩が死んだ?
――ここから抜け出そう。外で拳聖と散歩と抱擁を交わそう。
くそったれ。
走った。俺が助けなければ。二階から噴水広場へ、再びロープを垂らせ。まだ間に合う。階段を駆け上がる。誰か彼を止めろ! 男の叫ぶ声が聞こえる。誰にも止められるものか。俺は最後まで諦めない。
――なら、最後が来たら?
俺は火の海に飛び込み、顔面に火傷を負った。追ってきた隊員に取り押さえられ、命を助けられた。
拳聖と散歩は死んだ。知っての通りだ。
いくら回想を重ねても、彼らの命を救うことはできない。
しかし、彼らを生き返らせることはできる。俺はその方法を見つけたのだ。人形に彼らの魂を宿らせる。あの日俺が殺した二十人は、十数年の歳月を経て、助かるのだ。
そのためなら、何だって利用する。墓場の土だろうが、罪のない少女の幽霊だろうが。
袋に入れた土を高く掲げる。太陽に透かされ、薄く光っている。そう、これは俺の希望だ。そして恐らく、彼女も。
俺は度々、僴間莉瑠の元を訪れた。彼女はいつも、こちらが一歩身を退いてしまうほどに溌剌(はつらつ)としている。しかし会っているうちに、それが表面的なものだとわかり出した。
彼女の瞳には光を感じなかった。こんな瞳の俺が言えたことではないが……いや、だからこそ、彼女の瞳の中でうごめく闇に気づけたのだろう。彼女のルーツを探る糸口を見つけた気がした。
その日もいつものように霊園を訪れた。新しく採取する必要があったので、莉瑠と話をしながら、袋に土を詰めていた。話の内容は覚えていない。彼女との会話はいつも中身のないものだった。彼女の家族の話や、学校の友達の話がほとんどだったように思う。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
彼女は突然思いついたように言った。「何に使うの、その土」
「聞かれなかったから言わなかっただけだ」
「じゃあ、ほら。教えてよ」
「この土から、魄(はく)を採取するんだ」
別に隠すことではない。
「はく?」
「貴重な物質だ」
魂を動かす燃料、或いは血液と言った方がいいかもしれない。
魂と魄というのはそもそも、仏教の考えだ。
人は死ぬと、魂と魄がからだから抜ける。魂は天に昇るもの、墓に宿るもの、土に還るものの三種類に分類される。魄は魂を安定させ、感情を支える。
生体と繋がった魂は魄を作り出すことができるが、死んだあとの魂にはそれができない。
幽霊は魄が減る一方なのだ。いつか魄が尽きて見えなくなってしまう。
彼女は暗い面持ちで話を聞いていたが、口を開いた。
「それは確かに……貴重な物質だね」
わかっていたことだ。
俺にとって特別なのはここの土だ。墓場ならばどこでもいい。しかし彼女にとっては、この場所が特別、なのだろう。ここには彼女の墓があって、きっと彼女の大切な人が墓参りに来る。長い年月が経ち、いつしか彼らの墓参りも思い出になり、彼女はこの場所を受け入れた。
「でも、いいこと知っちゃった」
つまり、幽霊も死ねるんだね。
嬉しそうに言った。瞳の中に、はじめて光を見た。
「確証はない」
「ううん、そうだよ。幽霊だからわかる。私たちは死ぬ」
つい前まで自分が幽霊だったことを忘れていた奴がどの口で言うのだ。しかし眼を輝かせて言い張る彼女からは、言葉では言い表せないちから強さを感じた。
これまで考えもしなかったが、幽霊は自らの存在をどう捉えているのだろうか。死後もこの世と繋がれ、しかし生きている人間とは切り離されている。生と死の間で宙吊りにされた幽霊たちは、ただ魄が尽きて消えるのを待っているのか?
「それじゃあ、幽霊の存在は無意味じゃないか」
「無意味じゃないよ」
さあ、と風が吹いて俺の髪を撫でた。彼女の髪は落ち着いたままで、まるで時間が止まっているようだった。いや、その通りなのかもしれない。
「私たちは幽霊になってから、考えるんだよ」
自分の人生に意味があったか。
――もしもし、お兄ちゃん?
お父さんとお母さん、お兄ちゃんに望まれた私の人生は、お兄ちゃんによって幕を下ろした。
――ごめん。パスケース落としちゃったみたい。
「戻ってきたら」
「ううん、バイト遅れちゃうから」
「でも、お前、危ないぞ」
「じゃあ電話切らないでいてよ。それなら安心でしょ」
ぜんぜん安心じゃなかった。ここで引き返さなかった私を、私は絶対に許さない。
どれほど話していたか、直前にどんな話をしていたか、もう思い出すことはできない。何度も反芻(はんすう)する記憶は、その後の、暗さと苦みを帯びた数時間。
鳴き咽ぶ、嗚咽。自分の喉からこんな音が出ることを・私はしらなかった。それを自分のものだとは到底思えなかった。思い出す度に腹の奥が痛み、口の中に海水のような濁った味が広がる。浸透圧。私のあごが熱を帯びそして燃えている。幽霊だから吐けなくて。だけど吐き気と一緒に押し寄せてくる知らない国の言葉、黒い素肌、そのぬるい温度が私の腰を手のひらで優しく撫でる。彼らの肌と私の肌がくっつき、離れ、くっつき、離れ……感情が失われていく。どうにかしなきゃ、という感情、私の胸の奥でめらめらと火の粉をあげていたある感情が消えてしまう。水に浸けた線香花火のように、断末魔の、だけどあまりにも小さい悲鳴を上げながら、消えてしまった。
私は朝コーヒーを思い出していた。朝ご飯の後、学校に行くまでの時間。お兄ちゃんが淹れたコーヒーを飲みながら、ゆったりと眠気を覚ます。朝コーヒー。
お兄ちゃんは最初、濃いコーヒーしか作れなかった。
「うええ苦い。砂糖入れる」
「そんなに入れたら味がわからなくなるぞ」
じゃあ次はもっと薄いの淹れて! でもお兄ちゃんはどうしても濃くしてしまう。ゆっくり淹れるのが癖らしい。毎朝、文句を言ううちに、少しずつ早く淹れてくれるようになって、最近やっと、私にも飲めるちょうどいい薄さになった。そんな日々を、日々を思い出しながら、私はすべての感覚のスイッチを切った。そして永い→永い永い→永い永い永い→永い永い永い永い→永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い時間が経って、遠くから電車の警笛が聞こえたとき、私は首を絞められて死んだ。
「でも、私のからだはまだ生きてるんだ」
心臓は中国に、肝臓はイタリアにある。私のからだは世界中で生きている。いろんな人と繋がっている。私は今、私のからだを通じて、その人たちからエネルギーをもらっている。
「だから死ねないんだ、私」
それはとても悲しいことだよ。寂しくて、悲しい。だから私は最初、ずっとお兄ちゃんが憎かった。呪い殺して、私のパスケースを盗んだ理由を聞いてやろうって思ってた。でも時間が経つうちに、なんだか、どうでもよくなってきたの。
空間や時間と切り離されて、ひとりぼっちになった私にできる唯一のこと。それは、許すことなんだ。そう思った途端、憑き物が落ちたみたいに心が軽くなった。その代わりに、何かあたたかいものが胸に広がった。
「何事も時間が解決してくれる」って言うけれど、本当なんだ。私はあんなに憎んでたお兄ちゃんを許すことができたんだ。
「だから、幽霊になったことは無意味じゃないよ」
莉瑠がはにかむ。その笑顔を、俺は直視することができなかった。俯いて土をいじる振りをしながら、頭の中で彼女の言葉を繰り返した。
幽霊になったことは、無意味じゃない。
「先生、大丈夫ですか?」
はっとする。白衣の男が戸惑いながら俺の顔をのぞいている。手が彼の肩を掴んだままだった。慌てて離す。
「すまない。考え事をしていた」
見渡すと、さっきより低くなった太陽がビル群を真っ赤に照らしている。
まるであの日俺たちを呑んだ炎のようだ。
いつまでも思い出に浸っていてはいけない。今、莉瑠がいるのは研究室だ。そして二十人の同級生が幽霊だったのも過去の話だ。
今日、人形に魂を宿す実験が行われる。
はじめに魂を宿す人物はずっと前から決めていた。
金城拳聖。
それが、人形に宿る魂の名だ。
続く
---------------------------------------------------------
『マリオネ・テスタと空欄[K]』 著・亮月冠太朗 / 絵・市川正晶
担当編集:水井くま
編集・日本大学芸術学部文芸学科所属 出版サークルKMIT
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?